熊本ラーメン

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更新日:
 2020年4月20日



◎熊本ラーメン(2020年4月20日)
 熊本ラーメンは主に熊本県熊本市およびその周辺で提供されているご当地ラーメンです。白濁した豚骨スープに鶏ガラがブレンドされており、久留米ラーメンなどに比べるとマイルドな口当たりです。そこにニンニクと赤ねぎを揚げて潰して作った「マー油」と、焦がしニンニクのチップをトッピングします。麺は中太のストレートで、やや柔らかめが一般的です。基本的に替え玉はありませんが、最近は替え玉が出来るお店もあるようです。
 熊本ラーメンは、「白濁豚骨スープ」の発祥の店、福岡県久留米市の「三九」が熊本県玉名市に支店を出したことから始まりました。この久留米ラーメンが玉名を経由して熊本に伝わり、熊本で発展したのが熊本ラーメンです。
 「白濁豚骨スープ」を生み出した「三九」というラーメン屋台を営業していた杉野勝見さんは1951年(昭和26年)、三九の常連客だった四ケ所日出光さんに「三九」の暖簾ごと店を譲り、自身は縁もゆかりもない北九州市小倉に移り住みました。
 「三九」を譲り受けた四ケ所さんは1952年(昭和27年)に熊本県玉名市の国鉄、高瀬駅(現在のJR、玉名駅)近くに中華そば屋「三九」をオープンしました。当時、久留米市で繁盛していた屋台ラーメン店が玉名市に出店したのは、その味に惚れ込んだ知人が熱心に誘ったからだったそうです。
 当時の玉名の町にはうどんや蕎麦しかなく、豚の骨を煮詰めた白濁スープの濃厚なラーメンの味は新鮮で、すぐに評判となり、連日、大勢の客で賑わったそうです。当時の玉名にはネギがなく、ニラを代用したこともあったそうです。また、当時、四ケ所さんは自家製麺を運ぶため、ほぼ毎日、単車で久留米まで往復していたそうです。
 「玉名にうまい食べ物がある」との話を聞いた青年3人組が、1953年(昭和28年)に熊本市から「三九」のラーメンを食べに来たそうです。その3人とは山中安敏さん、劉孝治(重光孝治)さん、木村一さんです。この3人は不動産業、中古車販売業を営んでいたそうですが、この年(1953年)に北部九州を襲った白川大水害によって被害を受け、再起を期すために新しい商売を探していたそうです。3人は生まれて初めて食べた白く濁ったスープの豚骨ラーメンに感銘を受け、商売の可能性を感じたようです。
 3人は試行錯誤してスープを作り上げ、1953年(昭和28年)には木村一さんが「松葉軒」(現在は閉店)を、1954年(昭和29年)には山中安敏さんが「こむらさき」を創業しました。
 1955年(昭和30年)6月には久富サツキさんが「桂花」を創業しました。この時、劉孝治(重光孝治)さんは、「桂花」で調理を務めていたそうです。劉孝治(重光孝治)さんは、出身の台湾の客家料理をヒントにラーメンに揚げたニンニクを入れることを思いついたようです。「桂花」は、1968年(昭和43年)12月に東京、新宿に東京支店1号店として末広店を開店しました。これにより熊本ラーメンが東京に知られるようになりました。
 劉孝治(重光孝治)さんは、その後、1968年(昭和43年)に独立し、味千ラーメンを立ち上げました。2010年に「桂花」が、民事再生法の適用を申請した際、そこに手を差し伸べたのが「味千ラーメン」を運営している重光産業です。
 一方、四ケ所さんは1956年(昭和31年)、結婚を機に三九の支店を他人に譲り、屋台「三九」も畳み、佐賀県佐賀市に移住し、佐賀市で「三九」を開業したそうです。これにともない玉名の「三九」も店を畳むことになりました。しかし、同店に住み込んで働いていた中村敏郎さんは、1957年(昭和32年)に玉名市高瀬に「天琴」というお店を立ち上げました。
 このように「三九」は玉名市では4年程度しか営業していなかったものの、この地域の人々にラーメンを伝え、さらに熊本ラーメンという新しい食文化を作るきっかけを残していったのでした。