うどん

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更新日:
 2016年1月3日


◎うどん(饂飩)(2016年1月3日)
 うどんとは、小麦粉に少量の塩水を加え、こねたものを麺状にした麺食品です。茹でた麺をツユにひたして食べたり(つけ麺)、カツオ出汁と醤油で味付けしたかけ汁(かけ麺)で食べる方法があります。手軽な庶民食、米食の代用食として、また、祝い事に際して振る舞われる「ハレ」の食物として、古くから日本全国で食べられてきたようです。このため地域によって、調理法や具材が違っています。
 同じ小麦粉を使って作った麺で、麺が細い「冷麦」、「素麺」、また麺が幅広で薄い「きしめん」、「ほうとう」などがありますが、基本的には別の料理と考えられています。
 うどんの誕生には諸説があって、定かではないそうです。いくつかある説を年代順に並べると、以下のようなものがあります。
 奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した唐菓子(からくだもの)の1つである「混飩(こんとん)」だという説があります。混飩は、小麦粉を加工して作られた餡入りの団子菓子だそうです。この混飩を温かい汁に入れて食べるようになり、「温飩(おんとん)」と呼ばれるようになり、さらに、それが転じて「うんとん」、さらに「うどん」になったという説です。
 また、平安時代に弘法大使(空海)が唐から帰った際、うどんの技術を日本に持ち帰ったという説があります。空海は、讃岐国多度郡屏風浦(現、香川県善通寺市)の出身であり、当時、故郷は非常に貧しかったため、故郷の人々にうどんの作り方を教え、広まったという説があります。これにより、讃岐地方では、うどんが広く食べられるようになったと言う説です。
 仁治2年(1241年)に中国から朝鮮半島を通って帰国した円爾(えんに、聖一国師)が製粉の技術を持ち帰ったという説があります。円爾は帰国後、上陸地の博多(現在の福岡市)にて承天寺を開山しました。そこで、中国から持ち帰った饂飩、蕎麦、饅頭などの粉物の食文化を広めたという説です。
 南北朝時代末期の書物である「庭訓往来(ていきんおうらい)」や「節用集(せつようしゅう)」などに「饂飩」や「うとん」の語が現れるそうです。このことから、遅くとも鎌倉時代までには、日本にうどんが入ってきていたものと考えられます。
 現在では、室町時代には現在のうどんの形になり、江戸時代にかけて、うどん食文化が庶民の生活の中に入っていったと考えられているようです。現在のようにカツオだしと醤油で味付けした汁で食べるようになったのは、全国に醤油が出回りはじめた元禄年間(1688~1704)以後のことであり、それ以前は味噌で味付けした味噌煮込みうどんが中心だったと考えられているようです。
 うどんの上に様々な具を乗せた天ぷらうどん、玉子とじうどん、鴨南蛮うどんなどは、江戸時代中期から後期にかけて開発されたようです。現代の形の「うどん」は、江戸時代には全国的に普及し、広く食べられるようになっていたと考えられています。
 江戸時代は「うどん」、「うんどん」、「うんとん」という呼ばれ方をしていたようで、浮世絵に描かれた看板に「うんとん」と書いてあることがあるそうです。明治初期の辞書である「言海」には、「うどんは、うんどんの略」と記載されているようです。
 うどんのかけ汁は各地域によって好まれる味に違いがあるようです。特に、関西と関東では、味付けが大きく異なっています。
 関西では、うどんのかけ汁を吸い物のように出汁の味まで楽しむという文化があり、薄口醤油が使われています。具には、年間を通して瀬戸内海で取れた白身の魚や新鮮な野菜を使うことができたため、素材の風味を消さない薄い味付けの汁になったと考えられているようです。
 一方、関東では濃口醤油で味付けしており、汁が黒っぽい濃い色をしています。関東では具の材料に脂肪分の多い魚や、保存した野菜などが使われていたため、醤油の濃い味付けで食べていたと考えられているようです。
 このような大きな差だけではなく、日本中で様々な種類の「うどん」が存在しています。例えば麺の硬さや太さ、汁の味付け、具の中身など、いろいろな種類があり、一口に「うどん」とくくることができないくらいです。