博多ラーメン

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更新日:
 2015年4月16日



◎博多ラーメン(2015年4月15日)
 博多ラーメン(はかたラーメン)とは、主に福岡県福岡市で作られている豚骨スープとストレートの細麺をベースにしたラーメンです。特徴は乳白色に白濁した豚骨スープです。このスープの白い濁りは豚骨を強火で沸騰させた結果、骨のゼラチンなどが溶け出したものだそうです。寸胴で毎日、一定量の材料を一定時間煮出して作ったフレッシュなスープを仕込み、その日に使い切る「取り切り」という作り方が主流です。また、細めのストレート麺で、茹で方は「固麺(かためん)」が一般的だそうです。
 博多のラーメンには澄んだスープと白濁したスープの2種類のルーツがあるそうです。博多ラーメンの元祖は「三馬路(さんまろ)」という澄んだスープのお店だそうです。(1980年(昭和55年)頃に閉店したそうです。)一方の白濁したスープの元祖は「博龍軒」と「赤のれん」というお店だそうです。
 「三馬路」は、1940年(昭和15年)に中洲の旧福岡玉屋近くの博多川沿いで大陸から戻ってきた森堅太郎(本名、友市)さんが創業した、博多初のラーメン屋台です。スープは半濁気味のあっさりした清湯の豚骨スープで醤油味、麺も平打ち麺で、名前もラーメンではなく「中華そば」と呼ばれていたそうです。
 1946年(昭和21年)、戦後に職を失い、飲食業で生計を立てようと井上清左衛門さんが開業したのが「博多荘」です。当時、中洲にあった中華料理店「福新楼」の2代目、張兆順さんから手ほどきを受けたため、現在のような白濁スープではなく、清湯の豚骨ラーメンだったそうです。また、メニューも「中華そば」と表記されていたそうです。
 また、同じ1946年(昭和21年)には、うどん屋台を営んでいた山平進さんと天ぷら屋台を引いていた津田茂さんが合作で豚骨ラーメンを作ったそうですが、そのきっかけは、ひょんな偶然だったそうです。ある日、山平進さんの婦人、ミヨ子さんの実家の増築工事でやってきたのが、当時、大工をしていた津田茂さんだったそうです。津田茂さんは満州に出征し、戻ってきたばかりで、食べるのに困っていたそうです。弁当として持ってきた飯盒の中身は麦粥だったそうです。そこで山平進さんが「うどん屋台をしたら、食べることには困らない」と勧めたところ、津田茂さんは大工の腕を生かして屋台を組み上げ、うどんと芋などの野菜を揚げた天ぷらを売り歩いたそうです。
 同業者として親しくなり、付き合いを深めていくうち、津田さんが兵隊時代に中国の満州の奉天(現在の中国瀋陽市)で食べた「十銭ソバ」のことを話したそうです。そこで意気投合した2人は新メニューの開発に乗り出したそうです。津田さんが豚骨スープの麺料理をヒントに、日本人の好みに合わせたスープを作り、山平さんがかん水で平打ちの麺を作ったそうです。この2人で合作した豚骨ラーメンを屋台で売り歩いたそうです。山平さんの屋台は「金龍」、津田さんの当初の屋台の名前は分からないようです。当時、うどんが1杯30円の時代にラーメンは1杯50円で売っていたそうです。
 1杯でも多くのラーメンを売りたい2人は、屋台が来たことに気づいてもらうため、建築板金店でチャルメラを作ってもらい、これを吹くことにしたそうです。箱崎の浜辺で練習し、どうにか音が出るようになったものの、始めの頃は重い屋台を引くことよりも、チャルメラを吹く方で息切れがしてきつかったそうです。
 山平さんは1957年(昭和32年)に福岡市東区馬出(まいだし)に据付屋台を出したことを機に屋号を「金龍」から「博龍軒」に変えたそうです。いとこの山平巌さんが大分県日田で「博龍軒」という中華料理店を経営していたので、その名前を拝借したのだそうです。
 一方、津田さんは、最初、白い暖簾をかけた屋台を引いていたそうですが、照明にアセチレン灯を用いていたため、ここから出るススによってノレンや津田さんの顔や服を汚したそうです。お客さんから「風呂に入っているのか?」などと聞かれることに困って、ノレンを赤く染めたところ、「赤のれん」と呼ばれるようになり、定着してしまったため、屋号にしたそうです。