蒲鉾、かまぼこ

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更新日:
 2020年8月10日



◎蒲鉾、かまぼこ(2020年8月9日)
 「蒲鉾(かまぼこ)」は、魚肉練り製品の1つです。魚肉のすり身に調味料を加えて練り、蒸し煮あるいはあぶり焼きした食品です。通常、「かまぼこ」と聞くと、平たい板の上に練り物が乗せられた半月型の「板かまぼこ」を思い浮かべると思いますが、漢字で「蒲鉾」で書く通り、語源は川辺に生えている「蒲(ガマ)」の穂に形が似ていることからきています。すなわち、もともとは現在の「焼き竹輪」のような形状の食べ物だったということです。
 「蒲鉾」に関する記述で最も古いものは、平安時代にまで遡ることができます。摂関家、家司の藤原親隆が1146年(久安2年)頃に作成したと考えられている「類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)」という書物には、1115年(永久3年)7月21日に関白、藤原忠実が催した祝宴に供された料理の中の1つとして「蒲鉾」の記述があります。料理の絵が描かれており、その形状は、まさに現在の「焼き竹輪」そのものでした。
 当時の「蒲鉾」は細い竹を芯にして、魚のすり身を塗りつけて焼いたものだったようです。その形が、ガマの穂に似ていることから「蒲の穂」と呼ばれていたそうです。この「ガマの穂」が「かまぼこ」になった理由としては、①「蒲穂子(がまほこ)」と言われていたものが訛って「かまぼこ」になったとする説、②蒲の穂は「鉾(ほこ)」に形が似ているため「がまほこ」と呼ばれ、それから転じて「かまぼこ」になったとする説、があるそうです。
 もちろん、これ以前からも食べられており、一説には201年、仲哀天皇の皇后である「神功皇后(じんぐうこうごう)」が戦に向かう時、現在の神戸市、生田の森で休憩された際に地元の人が「鉾の先に魚のすり身を巻いて手焼きしたもの」を献上したという伝説があるようです。これが、現在のかまぼこの原型だとして、兵庫県蒲鉾組合連合会が生田神社境内の生田の杜に、「かまぼこの発祥の地」とする碑を2015年(平成27年)11月15日に建てています。
 室町時代の1504年(永正元年)に作られた小笠原流の食事作法を記したマナー本である「食物服用之巻」には、「粥の事 かまぼこは右にてとりあげ、左へとりかえ、上ははし、中はゆび。下はいたともにきこしめす也。きそく(亀足)かけとて、板の置やうに口伝あり。」と記載されており、「板付きかまぼこ」が生まれていたことが分かります。
 一方、1528年(享禄元年)に伊勢貞頼(貞仍)によって記された「宗五大草紙(そうごおおぞうし)」には、「かまぼこはなまず本也。蒲のほをにせたる物なり」と記されているそうです。この頃の蒲鉾の材料は「ナマズ」で、こちらの形状は串に刺した形状です。すなわち、室町時代に板付きの蒲鉾が生まれたものも、まだ普及する前だったと考えられます。
 1752年(宝暦2年)に記された「摂戦実録大全・巻一」という書物によると、豊臣秀吉の三男である豊臣秀頼が大坂城へ帰還する途中、お抱え料理人の梅春が蒲鉾を作って振る舞ったことが綴られているそうです。この時の蒲鉾は、魚のすり身を板に擦りつけて焼いた「焼き抜き蒲鉾」だそうです。このことが事実であれば、安土桃山時代には、竹輪形状の蒲鉾から、板に乗せた形状の蒲鉾ができていたことになります。ただし、豊臣秀頼は1615年6月4日(慶長20年5月8日)に亡くなっていますので、それから100年以上後に書かれた書物では、正確さは疑わしいのではないでしょうか。また、「焼き抜き蒲鉾」は板の上にすり身を乗せますが、現在のような蒸し蒲鉾ではなく、表面を焼いた蒲鉾です。
 蒲鉾が板付きになった理由としては、「作る時に形を整えやすい」、「持ち運びに便利」、「蒸したり、冷やしたりする時に余分な水分を吸い取ってくれる」、などいくつかの理由が考えられるそうです。当時の状況を考えると作りやすい、持ち運びしやすい、ということが、当初の改良の目的だったのではないかと思います。
 現在のような蒸した蒲鉾ができたのは、江戸時代の末期だそうです。喜多村信節が1830年(文政13年)に発表した、江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲などについて書いた随筆である「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」には蒲鉾について、「昔は蒲鉾はゆでることなく焼きたるものなり」と記載されているそうです。
 また、喜田川守貞が1837年(天保8年)から書き始めた「守貞謾稿(もりさだまんこう)」には、「江戸にては焼て売ることなく、皆蒸したるのみを売る」と、蒸しかまぼこのことが記載されているそうです。
 このように江戸末期、江戸では「焼き蒲鉾」がすたれて、「蒸し蒲鉾」が主流になったようです。しかし、この現象は江戸での出来事で、関西では蒸した蒲鉾を更に焼く、という蒲鉾が作られるようになったそうです。これは大阪、兵庫、堺で作られた蒲鉾は京都へ売られるものが多かったそうですが、蒸しただけでは傷みが早いため、焼くことで日持ちがするように工夫したそうです。また、この頃になると赤、白、緑などに染め分ける細工蒲鉾も作られるようになったそうです。
 明治の文豪、夏目漱石の代表作である「吾輩は猫である」には、「口取の蒲鉾」を正月に食べる場面が登場します。すなわち、明治から大正にかけては、裕福な都市民の間で、正月をはじめとする祝い事の時に蒲鉾が食べられていたと考えられます。
 1936年(昭和11年)の「新時代割烹教本16」には、正月の口取の食材として紅白のかまぼこが紹介されています。ただし、今日のように全国の家庭のおせち料理として定着したのは、戦後の高度経済成長期以降のことと考えられています。これは、高級品から比較的安価な蒲鉾まで、バリエーションが豊富になったことと、冷蔵物流や冷蔵配送、保存技術の発達で、いつでも新鮮な商品を入手することが可能になったことが挙げられます。
 現在では、蒲鉾は正月の家庭の食卓において、もっとも大衆化を果たした魚料理であるといっても過言ではないのかもしれません。ちなみに正月の食材には様々ないわれがあります。かまぼこは日の出を象徴するとされ、紅色は慶び、白は神聖を意味するとされています。このことからも「紅白」2種類の蒲鉾を食べることが多いと思います。
 蒲鉾の材料とされる魚はタラ類、サメ類、イトヨリ、ベラ類などの白身魚です。オキギス、グチ、エソ、ムツ、ハモ、ヒラメなどの魚肉は、高級蒲鉾の製造に使われています。
 蒲鉾は魚の白身だけを使用するので血合い肉、内臓、血液、脂肪などの余計なものを取り除きます。余計な部分を取り除いた白身肉は三枚に卸して、肉と皮に分離します。処理が終わった肉は袋詰めにして、水に漬けてよく晒します。この晒し方は、作る地方によって違いがあり、関東では十分に晒し作業を行いますが、関西では晒しはそこそこで終わらせるようです。これは、関東の人々は見栄えが良い白い商品を好むため、味よりも見た目がきれいなものをつくるためによく晒し、関西では見栄えよりも美味しさが第一なので、少しばかり見栄えが悪くても味を第一にして晒す作業は控えめにしているそうです。
 水で晒した白身肉は石臼などですり潰し、この時に卵の白身、砂糖、塩、みりん、デンプンなどを投入して練り合わせます。本来、塩を加えることですり身に粘り気がでてきますが、最近では後の作業で成形しやすくするために増粘安定剤など、食品添加物を加えていることもあります。
 練り合わせた身は「手付包丁(附包丁)」というヘラのような形をした包丁で半円筒形、いわゆる「蒲鉾型」に成形したものを杉などの小板の上に盛り付けますが、機械や型抜けで成形する製造者も多いです。板に盛り付けた蒲鉾は「板蒲鉾」と呼ばれますが、麦わらなどに巻き付けた「(簀)巻蒲鉾」、薄く削った蒲鉾を乾燥させた「削り蒲鉾」などもあります。
 盛り付けが終ると蒸し作業に入りますが、蒸し以外にも焼き、茹で、揚げなど、様々な方法で製造されています。ちなみに、茹でて作ったものは「はんぺん」や「つみれ」、揚げたものは鹿児島名産「薩摩揚げ」となります。これらの食べ物は名前が違いますが、実際には広義の意味での「蒲鉾」なのです。
 また、近年では赤身魚を原料とする「かまぼこ(くろぼこ)」も作られています。
 ちなみに現代においては、「かまぼこ」と「ちくわ」を区別する基準は材料や製法ではなく、単に「穴が空いているかどうか」だそうです。