江戸前のお話

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更新日:
 2013年8月10日


◎江戸前(2013年8月10日)
 現在、「江戸前」といえば「寿司」と多くの人が連想するのではないでしょうか。「江戸前寿司」という一つの単語になっていて、スーパーマーケットなどでは商品名にもなっていそうなくらいに一般的な単語になってしまいました。
 しかし、本当の「江戸前」は、「寿司」ではないそうです。なんと、「江戸前」の語源は、「」から来たのだそうです。江戸時代、「江戸前」とは「城の前、東側から大川の西側の範囲」のことを指しており、この辺りには海も含まれましたが、一般的には河川のことだそうです。すなわち、隅田川とか神田川とかが「江戸前」であり、ここで獲れたものが、「江戸前の食べ物」ということになるのです。実際には、この川と海を行き来していた鰻を「江戸前」と呼んだのだそうです。
 東京の鰻屋さんの屋号には「宮川」、「前川」、「神田川」など、「川」の字がついていることが多いです。これは、鰻屋さんは、鰻を川の横で仕込んでいたため、そこに由来したのではないかといわれているのだそうです。
 ちなみに、江戸湾に流れ込む川以外で獲れて、江戸に運ばれてきた鰻は「旅鰻(たびうなぎ)」、「旅の鰻」と呼んで区別していたそうです。
 しかし「江戸前」という言葉は、場所や地域を示すだけの言葉ではありません。鰻では、背を割いてから、一度、素焼きしてから蒸しあげて、さらにタレをつけて再び焼きあげるのが江戸前の調理方法です。普通、魚は腹側を割きますが、江戸は武士が多いため、切腹のように腹を切ることを嫌って、背を割くようになったと言われています。このような手間をかけることで余分な油脂を落とし、ふっくらとしたかば焼きに仕上げることができます。この調理方法が「江戸前」と呼ばれる方法です。
 このような江戸前の鰻を江戸前の調理法で仕上げてきた「江戸前」が「寿司」と認識されるようになったのは何故でしょうか。「江戸前」が「鰻」から「寿司」に変わったのは、昭和に入ってからのようです。
 明治12年(1879年)、服部倉次郎という人が、東京深川千田新田に2haの養殖池を作って、日本初の鰻の養殖を試みたそうです。ちょうど付近には冨岡八幡があり、非常に繁昌したそうです。ところが、この辺りは地盤が低く、少しの雨で池が氾濫し、鰻が逃げ出してしまったようです。また、夏には水温が上がって渇水や病気の心配もあったようです。
 明治32年(1899年)、服部は愛知県水産試験場の嘱託となり、同所へ出張の途中、浜名湖畔が養殖の適地であると着目し、同年、静岡県舞阪町吹上に養鼈池7町歩を設置し、養殖場を移設したそうです。これによって「江戸前鰻」が徐々に消えていき、鰻屋の看板からも「江戸前」という言葉が消えていったようです。
 戦後、東京の握りずしが全国に広まるにつれ、新鮮な魚介を酢飯と一緒に握れば「江戸前」だと勘違いされるようになっていってしまったようです。一説では、「江戸前(江戸湾や近郊の河川)で獲れたものを使った寿司」を指すという説や、握り寿司を生み出したと言われる江戸の「與兵衛鮓(よへいずし)」で出していたような「酢締めにしたこはだ、煮含めた穴子、はまぐりなど、「仕事」をしてある寿司」を指す、などの説があるようです。
 現在では、獲れたての魚介を使う「江戸前」の暖簾を掲げた寿司屋が多いようですが、本来の「江戸前」は「鰻」であったということです。