元祖 長浜屋

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更新日:
 2015年6月20日



◎元祖長浜屋(2015年6月10日)
 福岡市中央区の長浜鮮魚市場横にある「元祖長浜屋」は、「長浜ラーメン」の元祖だと言われています。「長浜ラーメン」とは福岡市中央区長浜の店舗や、屋台のラーメンのことを指すことが多く、博多ラーメンから派生して独自に進化したラーメンです。
 「元祖長浜屋」の創業者の榊原松雄、きよ子夫妻は、2人とも愛知県知多郡生まれで1947年(昭和22年)に結婚したそうです。松雄さんは鍛冶職人だったものの闇市で商売を覚え、夫婦して名古屋に出たそうです。この頃は面白いほど儲かったそうです。この時、台湾人の李さんという人と知り合いになったそうです。松雄さんは日本人から差別されていた李さんに何かと世話をやいていたところ、李さんがお礼に「人生には何が起こるかわからない。お金に困った時は、このラーメンの作り方を思い出してください」と言って、台湾で作られているラーメンの調理方法を教えてくれたそうです。
 李さんは材料の選び方、豚骨の砕き方、煮方まで細かく教えてくれたそうです。松雄さんは細かくメモを取ったそうですが、全てを覚えたら、破り捨ててしまったそうです。
 1952年(昭和27年)、松雄さん30歳、きよ子さん26歳の秋のある日、松雄さんは突然、「九州へ行くぞ」と言い出したそうです。きよ子さんに「新天地を求めて北海道へ行ったが雪が多くて働ける期間が少ないと思ったため、暖かい九州がいいと決めた」、と説明したそうです。しかし、博多に着いたものの何のあてもなく、野宿生活をしながら仕事を探したそうですが、職は見つからなかったそうです。そこで、李さん教えてもらったラーメンの屋台をすることにしたそうです。しかし屋台は、中古でも8,000円もしたそうです。当時は封切映画館の入場料が122円、煙草のゴールデンバットが30円、小学校教師の初任給が5,820円、新聞購読料が1ヶ月280円だったそうです。夫婦にとってはとてつもない大金で、実家に泣きついて借金し、2人の子どもも預けて、この年の冬、旧博多駅前に屋台「清風軒」を開いたそうです。
 しかし、初日は1杯も売れなかったそうです。翌日、中洲に移動したそうですが、2杯しか売れなかったそうです。そんな日が何日も続いた時、松雄さんが「大浜の魚市場へ行こう」と言い出したそうです。当時、すでに何軒かのうどん屋台があったものの、何とか市場内に屋台を据えることができたそうです。
 ここでは少しずつ客がつき、売れるようになったものの、食べるのがやっとで、住む所もなく、屋台の中でテーブルに突っ伏して寝る日々が続いたそうです。1955年(昭和30年)6月に市場が長浜に移転すると聞いた松雄さんは、一番良い場所をとろうと考え、市場がオープンする3日前の夜、屋台を引いて長浜に向かったそうです。途中、タイヤがパンクしたので、包丁で切り捨てて移動し、一番乗りを果たしたそうです。
 着いた場所は西門の前でしたが背丈より高い草がボウボウと茂っており、街灯もないような場所だったそうです。移動して最初の仕事は包丁で草を刈ることだったそうです。市場がオープンし、いざ店開きとなったものの、電気も水道もなければ、道も舗装されてないという状態だったそうです。屋台には電気がないため、蝋燭やランプの明かりが頼りだったそうです。
 麺揚げの湯や、洗い物の水を流せば下はドロドロになり、とても汚かったそうです。あまりの汚さに市が強制的に立ち退かせようとしたこともあったそうです。しかし、魚市場の人達は長靴履きだったため、あまり気にせずに協力的だったそうです。きよ子さんが「ハイ、流すよ、足上げて!」と声をかけると、みんな一斉に足を上げてくれ、「下ろしてよろし」の声で下す、というよき時代だったそうです。
 当時の長浜屋台は、どこもカウンターは脂でギトギト、とても手や肘をつくことなどできる状態ではなく、床はビショビショの水浸しだったそうです。ドラム缶を半分に切った釜の中で豚骨がグツグツ炊かれ、それを店の人がスコップでかき回す光景は、現在では考えられないような環境だったようです。
 当然、冷蔵庫などないため材料が余ったら捨てなければなりません。特に夏は大変で、せっかく仕入れた材料を丸ごと捨てることもあったそうです。この損は結構、大きくて、それがもったいないからと、際どい材料を使って食中毒を出した屋台もあったようです。そんなある日、常連のお客さんだったニチレイの社員が「うちの冷蔵庫に入れとけや」と親切に声をかけてくれたそうです。魚市場の中にある巨大な冷蔵庫で、商品が詰まった通路に台を設けて、特別に材料を置かせてくれるとの提案だったそうです。
 信じられないような提案に、「何故、こんなことをしてくれるのか」と聞いたら、その社員は「ブーちゃん(松雄さん)なら信用できるけん」と言ってくれたそうです。これを境に、やっと利益がでるようになったそうです。きよ子さんは、後々まで、心の中でニチレイ社員に手を合わせ続けたそうです。
 着の身着のまま、風呂敷包み一つで博多に来て6年目の1958年(昭和33年)になり、屋台の商売も何とか安定してきたそうです。市場の裏にある漁船会社の寮に入れてもらい、子どもたちも引き取って、やっと家族で布団の中に横になって寝られるようになったそうです。
 1974年(昭和49年)、松雄さん52歳、きよ子さん48歳の時、「長浜屋台通りの入口に空き店舗が売りに出されている」という情報が、不動産屋からあったそうです。松雄さんはこの話に飛びつき、どうしても買いたいと言い出したそうですが、借金する当てなどなく、屋台で夫婦喧嘩をしていたところ、この話を聞いたお客さんの1人が「心配するな。俺んところが貸してやる」と提案してきたそうです。そのお客さんは信用組合のお偉いさんだったそうです。
 「もし、ブーちゃんが金返さんやったら俺が罰かぶる」とまで言ってくれたそうです。酔っぱらって口にしたのではないだろうか、と思っていたところ、それからすぐ、保証人も抵当もなしで全額をポンと貸してくれたのだそうです。このお金を元手にして、1974年(昭和49年)に元祖長浜屋本店が開店しました。博多には知り合いがいないため花輪は1つもなかったそうです。従業員は7人もいたそうですが、朝から昼までは1人も客が来なかったそうです。この頃から「元祖」を名乗るようになったそうです。
 それから半年後、朝も昼も夜も、1日中、行列が途切れることがない人気のお店になったそうです。全国的なラーメンブームが起こる直前で、マスコミの取材も殺到するようになり、2年後には支店を出すほどに繁盛したそうです。
 本店の開店から10年後、1984年の夏、松雄さんが足の痛みを訴えるようになったそうです。医者に行った結果、医師の診断は糖尿病の末期だったそうです。入院したものの、半年後には寝たきり状態になったそうです。しかし、病院でもスープのことばかり気にするので、毎日、ポットに入れて運んで味見をさせたそうです。「明日も持ってこいよ」というのが、死ぬ直前に残した言葉だそうです。長浜ラーメン生みの親の榊原松雄さんは、1984年(昭和54年)7月13日、亡くなられたそうです。
 現在、「元祖長浜屋」は地元、福岡では「ガンソ」、「ガンナガ」などと呼ばれて親しまれているお店だそうです。メニューはラーメンしかなく、入店すると自動的に1杯が注文されます。その際、客が「脂の量」と「麺の硬さ」の好みを伝えます。@「油の量」は、「ベタ」、「フツウ」、「ナシ」の3種類から、A「麺の固さ」は固い順に「ナマ」、「カタ」、「フツウ」、「ヤワ」の4種類から、B「ネギ」の量を「ネギオオメ」、「ネギモリ」の2種類から、選んで注文するのだそうです。私の好みは「フツウ、フツウ、ネギオオメ」ということになります。
 長浜ラーメンの特徴である「替え玉」は「元祖長浜屋」で生まれたそうです。長浜に移転する前後に「麺だけお代わりできんと?」とお客さんから言われたことをきっかけにして始めたそうです。ちなみに2010年(平成22年)に店舗をリニューアルしています。

・元祖 長浜屋
 住所:福岡県福岡市中央区長浜2-5-25 トラストパーク長浜 1F
 TEL:092-711-8154
 営業時間:6:00〜25:45
 定休日:12月31日〜1月5日
 駐車場:有
 アクセス:空港線、各停、姪浜行、赤坂駅から徒歩約30分
 カード:不可
 席数:32席
 オープン日:1952年