ハヤシライス

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更新日:
 2021年1月3日



◎ハヤシライス(2014年11月10日)
 ハヤシライスは、一般的に薄切り牛肉とタマネギをドミグラスソースやトマトソースなどで煮たものを米飯の上にかけた料理です。近畿地方ではハイシライスとも呼ばれるようです。明治時代に日本で独自に生み出された洋食メニューとされていますが、その発祥や名前の由来については、諸説あるようです。
 1つは、細切れ牛肉を煮込んだ料理にライスを添えたハッシュドビーフ(「hashed beef and rice」もしくは「hashed beef with rice」)が「ハッシライス」もしくは「ハイシライス」と略され、さらに「ハヤシライス」に転じたという説です。「ハッシュ(hash)」は「(肉などを)細かく切る」の意味です。言語学者の楳垣実は「日本外来語の研究(1963年研、究社出版)」の中で、明治時代に「切り刻む」という意味で「はやす」という言葉が使われていたため、「ハシト(ハッシュドを縮めた呼び方)」が「ハヤシ」に訛ったと説明しています。
 もう1つは、「ハヤシさん」考案説です。しかも、ハヤシライスを作ったとされる「ハヤシさん」は1人ではなく、候補者は2人いるそうです。1人目は、書店として有名な丸善の創業者の早矢仕有的(はやしゆうてき)です。
 早矢仕有的は1837年、美濃国武儀郡に岩村藩医師、山田柳長の子として生まれ、父が亡くなったため、同村の名主、早矢仕才兵衛の養子となり、大垣、次いで名古屋に出て医学を学んで医師となり、1854年(安政元年)、郷里に戻って医院を開業しました。
 1859年(安政6年)、江戸に上り、1860年(万延元年)6月に開業しました。坪井信道に学んだ後、1867年(慶應3年)、慶應義塾に入塾して福澤諭吉らに蘭学、英学を学び、貿易に関心を持ちました。そして明治維新後の明治元年(1868年)に横浜黴毒病院の医師となり、11月10日(12月23日)に書店丸屋を開業しました。
 1870年(明治3年)、東京、日本橋に店舗を開き、翌1871年には東京店(丸屋善七)の隣に唐物店、大阪店(丸屋善蔵)を開業し、その次の年には京都店(丸屋善吉)を開業するなどして、事業を拡大していきました。さらに、貿易商会としてウラジオストク、ニューヨークに支店を、ロンドン、リヨンに出張所を開設しました。そして1873年(明治6年)、故郷の恩人である庄屋、高折善六に謝意を表すべく店名を丸善に改称しました。
 日本橋の丸善東急ビルの3階にあるマルゼンカフェでは、以下の説明をしています。「早矢仕有的はヘボンや、当時、日本を訪れていた外国人と親交があり、また西洋料理にもなじみがあったため、友人が訪れるとあり合わせの肉や野菜をゴッタ煮にして、御飯を添えて振る舞っていたようです。やがて、この料理は「早矢仕さんのライス」と呼ばれるようになり、評判になり、「ハヤシライス」の名で街のレストランのメニューになり、日本橋店、丸の内本店等の併設カフェでは「早矢仕ライス」の名前で提供しています。」とのことです。
 ただ、1935年(昭和10年)刊行の「明治文化研究 第5輯」(明治文化研究会編、学而書院)に収録されている蛯原八郎の「早矢仕有的傳」には、早矢仕有的がハヤシライスを考案したという説に対し「話としては是は至極面白いが餘りに面白過ぎる嫌いがないでもないので、私は過日之を早矢仕四郎氏(早矢仕有的の長男)に質して、案の定訛傳であることを知った」との記載があるそうです。
 2人目は、1876年(明治9年)に開店した「上野精養軒」でコックをしていた「林さん」説です。従業員のまかない飯として、余った牛肉と野菜で作った料理が好評で、後に店の看板メニューになったという説があるそうです。また、「上野精養軒」の「ハヤシ」説では、実際の考案者は「林さん」ではなく、当時、宮内省(現在の宮内庁)で料理長を務めていた秋山徳造が考案したという説もあるそうです。
 秋山徳蔵は大正天皇、昭和天皇の2代にわたって料理番を勤め、天皇の料理番と呼ばれた人です。秋山徳蔵は「築地精養軒」に勤めた後に渡仏し、帰国後に「天皇の料理番」となりました。この秋山徳蔵が東欧料理のビーフシチュー「グラッシュ(goulash)」をヒントに身近な材料を使って仕上げた料理が宮内庁で振る舞われた「ハヤシライス」で、当初は宮内省のみで食べられていたものの、この料理を秋山徳蔵の弟子である林氏に伝授し、その後、林氏が「上野精養軒」の料理長を務めるようになった際、秋山徳蔵が考案したハヤシライスをメニューとして提供するようになり、一般にも広く知られるようになったという説です。ただ、「上野精養軒」に「林さん」というシェフが実在していたかどうか、確かな証拠はないようです。また、この説が正しい場合は、宮内省で、異なる名称の「ハヤシライス」に似た料理があったはずですが、この辺りの資料はないようです。さらに秋山徳蔵が宮内省に入ったのは1913年(大正2年)のことであり、後述しますが、それ以前の明治時代に「ハヤシ」の名称が文献にあることから、秋山徳蔵~上野精養軒の「ハヤシ」説は無理があるようです。
 ほかにも、「流行りのライス」が訛って「ハヤシライス」となったという説や、明治時代に一気に流入した洋食文化に拒絶反応を示した一部の人が「そんなものを食べたら早死にする」と吹聴して「早死(に)ライス」と呼んだことから来ているという説もあるようです。
 ただ、上記のハッシュドビーフ説でも、「ハヤシさん」説でも、他の説でもドミグラスソースやトマトソースについての記述がありません。牛肉や他の食材が細切れで煮込まれているようですが、どのような味付けかは分かりません。ドミグラスソースが日本に入ったのは、明治20年代以降のことらしいので、上記のいずれも、発生当時はドミグラスソースであるため、当初の味付けは醤油味か味噌味だったのではないかと考えられているそうです。ちないに、ケチャップが日本で一般に出回るようになったのは1908年(明治41年)以降だそうです。
 一方、「ハヤシ」という料理名が登場する最も古い文献は、1885年(明治18年)に刊行された「手軽西洋料理」(クララ・ホイットニー著、江藤書店)だそうです。この本には、「Beef Hash」(訳語は「雑煮」)と題する料理が紹介されています。その料理は、焙った牛肉と茹でて小さく切ったジャガイモを混ぜ、バターを溶かした鍋に入れて絶えずかき回し、塩、コショウ少々を加えて、よく焼けたら取り出すと書いてあるそうです。
 また、1888年(明治21年)に刊行された「軽便西洋料理法指南」(マダーム・ブラン述、洋食庖人編、久野木信善)だそうです。この本には「ハヤシビフ」という料理名が記載され、「ロースビフを薄く五分位の大さに切り、又玉葱の外皮を去り輪切に刻み牛酪少しを鍋へ入れ共に煎附(いりつ)け煮熟(にえあがり)たるを度とし右の中へソップ澤山(たっぷり)入れ又スチウのソース少し入れ煮熟を待ちパンの揚げたるものを載せ出すべし」といる料理法の説明があるそうです。この内容は、薄切りの牛肉と玉葱をスープとシチューのソースを入れて煮る、ということで、現在のハヤシライスの上にかかっている部分のようです。シチューのソースが、具体的にどのようなものかが分かりませんが、醤油や味噌では無いような気がします。
 1894年(明治27年)刊の「獨習西洋料理法」(バツクマスターほか著、八巻文三郎)には「ビーフハッシ」、1907年(明治40年)刊の「家庭応用洋食五百種」(赤堀吉松、赤堀峰吉、赤堀菊子著、新橋堂書店)には「ビーフ、ハヤシ」、1909年(明治42年)刊の「簡易西洋料理弐百種」(白井悦子著、弘道館)には「ハッシュビーフ」、1910年(明治43年)刊の「西洋料理教科書」(桜井ちか子編、紫明社)には「牛肉のハッシュ」という料理がそれぞれ記載されているそうですが、いずれもタマネギや牛乳、卵などのアレンジは加わっているものの、「手軽西洋料理」に登場する「Beef Hash」と同じく牛肉とジャガイモをバターで煮付けた料理で、ドミグラスソースの記載は無いそうです。
 また、1907年(明治40年)3月10日付の朝日新聞には、東京神田の岡島商店の「固形ハヤシライスの種」という広告が掲載されていたそうです。このことから、1907年(明治40年)には「ハヤシライス」という料理が一般的に知られていたというだと考えられます。
 なお、1926年(大正15年)に刊行された「手軽においしく誰にも出来る支那料理と西洋料理」(小林定美著、文僊堂)には「ドビグラス」で煮込んだ「ハヤシ、ライス」が紹介されているそうです。大正時代に、味付けがドミグラスソースになっているようです。