豚骨ラーメン

  メニュー

TOPページ 

観光地 

地域情報 

日本のホテル 

日本のニュース 

日本について 

美味しいもの 

海外事情 

海外のホテル 

雑学 

リンク 


更新日:
 2015年4月14日



◎豚骨ラーメン(2015年4月13日)
 豚骨ラーメンは、博多が有名かもしれませんが、久留米市で生まれたのだそうです。現在も福岡県久留米市野中町で営業している「南京千両 本家」が発祥だそうです。
 「南京千両 本家」は1937年(昭和12年)創業のお店です。「南京千両 本家」の初代店主、宮本時男さんは長崎県島原市出身で昭和10年頃、神奈川県横浜市の南京町(現在の横浜中華街)で中華そばの製法を修行していたそうです。その後、うどんの屋台を営んでいたものの、中華街や東京で流行していた中華そばを研究し、自身の出身地の名物である長崎ちゃんぽんをヒントに考案したのが豚骨ラーメンだそうです。当時、鶏ガラよりも安価だった豚骨を使って、豚骨100%のス―プを作ったそうです。しかし、この時に作られたスープは「清湯(ちんたん)スープ」と呼ばれる透明に近いもので、現在「豚骨スープ」と聞いて思い浮かべるような白濁したスープではありません。(現在でも「南京千両 本家」では、創業当時の清湯スープの豚骨ラーメンが食べられます。)
 白濁したトンコツスープが誕生したのは、そこから10年後の1947年(昭和22年)です。1947年(昭和22年)、杉野勝見さんが久留米市内に屋台「三九」を開業しました。杉野さんは宮本さんと親交があり、「三九」の屋号は宮本さんの生年が明治39年であったことと、英語の「サンキュー」にかけて名付けられたそうです。
 当時の「三九」は「南京千両」と同じく、豚骨をちょっと煮た程度の透明感を残したスープだったそうです。ところが、ある日、杉野さんが母親にスープの管理を任せて仕入れに行き、帰りが遅くなったところ、スープを煮立たせて白濁してしまっていたそうです。失敗作と思いつつ飲んでみると意外に美味しかったため、そのまま「白濁豚骨スープ」として使うことにしたそうです。
 杉野さんは4年ほど経った1951年(昭和26年)、「三九」をのれんごと三九の常連客だった四ケ所日出光さんに店を譲り、自身は縁もゆかりもない北九州市小倉に移り住みました。そして路面電車の「香春口」電停前に「来々軒」という屋台を開業しました。この「来々軒」も繁盛し、すぐに人気店になったそうです。最盛期には1日に700杯も売れ、20km近く離れた行橋までバイクで出前したこともあったそうです。現在でも、杉野勝見さんの息子で二代目の杉野龍夫がお店を切り盛りしています。杉野龍夫さんは先代の味を受け継ぎつつ「えぐみが出るから頭骨を使わなくしたり、炊き方を変えたり」と工夫も凝らしています。
 また杉野龍夫さんによると、最初にラーメンに海苔を乗せるようにしたのは杉野勝見さんの久留米時代の「三九」だそうです。メンマを切らして、代わりにノリを入れたのが始まりだそうです。
 久留米市の「三九」を引き継いだのは四ケ所日出光さんです。四ケ所さんは福岡県八女市と熊本県玉名市の玉名駅前に支店を出しました。この玉名で提供したラーメンが広まり、玉名ラーメン、熊本ラーメンに発展していったそうです。
 四ケ所さんは1956年(昭和31年)、結婚を機に三九の支店を他人に譲り、屋台「三九」も畳み、佐賀県佐賀市に移住し、佐賀市で「三九」を開業したそうです。この佐賀でも「三九」の豚骨スープが広がり、佐賀ラーメンとして広まっていったそうです。
 ちなみに「豚骨ラーメン」という単語が日本で最初に使われたのは1980年(昭和55年)8月ではないか、という情報があります。九州で初めて即席ラーメンを売り出した福岡市の「マルタイ泰明堂」が「月刊・シティ情報ふくおか」の1980年(昭和55年)5月号に出した広告では「新味 屋台ラーメン」、「コッテリ味の白いスープ!」と書かれており、「豚骨」の文字はないそうです。ところが、その3ヶ月後の同誌、裏表紙には「昭和55年8月吉日 新発売 ひと味新しい白いスープの九州とんこつラーメン 日清食品から新しい九州の味 「九州とんこつラーメン くおーか」 希望小売価格70えん」との広告が打たれたそうです。この広告が、日本で最初に「とんこつ」と銘打った文字ではないか、というものです。
 その後、1965年(昭和40年)に開かれた北海道物産展で「札幌味噌ラーメン」が全国的なブームになったそうです。このため、他のラーメンを区別する必要があり、関東は「醤油ラーメン」とか、名称を付ける必要があったと考えられます。そこで白濁したスープの九州ラーメンを「豚骨ラーメン」と呼び、広まったのではないか、という話があります。