札幌ラーメン

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更新日:
 2020年11月8日



◎札幌ラーメン(2020年11月5日)
 札幌ラーメンの特長は、ちぢれた黄色い麺、その麺の強いコシ、スープはこってりでタレは味噌、トッピングは炒めた野菜というのが一般的だと思います。この札幌ラーメンは、どのようにして進化していったのでしょうか。
 1922年(大正11年)に北海道札幌市に開店した「竹屋」という食堂(店主、大久保昌治、後に支那料理、竹家に改称)が北海道でのラーメンのルーツと言われています。札幌農大(現、北海道大学)の正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治、タツ夫婦が1922年(大正11年)に「竹家食堂」を開店しました。そこで働く中国、山東省出身の料理人の王文彩が作る本格的な中華料理が評判となり、店は繁盛したそうです。その後、常連客の北海道大学医学部教授(後の北大総長)の今裕(こんゆたか)の提案によって店名を「支那料理 竹家」に改名したそうです。
 麺作りは、初めは手で引っ張って伸ばす手打ち製法だったのですが、客が増えたため、製麺機を使用するようになったそうです。なお、竹家のラーメンは中華料理の「肉絲麺(ロゥスーミェン)」を原型としたもので、塩味をベースとした麺料理で、中国人留学生には人気があったものの、店のメイン料理ではなかったそうです。そこで大久タツが、王文彩の後任の料理人の李宏業、李絵堂の2人に日本人の口にも合うように改良することを相談し、その結果、それまでの油の濃かったラーメンから麺、スープ、具を改良し、試行錯誤の結果、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシュー、メンマ(シナチク)、ネギをトッピングした現在のラーメンの原形を作り出したそうです。この時、大久保たつが、厨房の中国料理人が大声で「好了(ハオラー)」と告げるアクセントを気に入り、「ラーメン」という名称にしたと言われています。
 その後、ラーメン店が賑わうようになったのは、終戦直後の1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)頃に屋台のラーメン店ができたことだそうです。その中に、後に「だるま軒」を開く西山仙治氏がいました。西山仙治氏は浅草でラーメン店に勤めていたことがあり、麺作りのノウハウをもっており、さらに当時はなかなか手に入らなかったラーメンの麺に欠かせない「かん水」の入手ルートももっていたそうです。ただし、西山仙治氏のラーメンは東京風のラーメンで、当時は「支那そば」と呼ばれたものでした。
 一方、1947年(昭和22年)頃、松田勘七氏(後の「龍鳳」の店主)は「寒い札幌で少しでも体があたたまるスープを」と、豚骨を煮込んだスープを考え出しました。燃料も乏しく、火力が弱かったため、時間をかけてコトコト煮込んだスープはゼラチンが溶け出し、コッテリしていながらも澄んでいるという、札幌ラーメン独特の清湯(チンタン)系スープの原型になりました。この時、もし火力が強かったら九州風の白湯(パイタン)スープになっていたと考えられ、その後、味噌と出会うこともなかったかもしれません。
 松田勘七氏からこってりスープを、西山仙治氏から調理の基本を受け継いでラーメン作りを始めたのが、大宮守人氏(後の「味の三平」の店主)です。大宮守人氏は1950年(昭和25年)頃、ラーメンに炒めたモヤシをのせるアイデアを思いつきました。大宮氏は、麺が茹であがるのをお客さんが待つ間、何か楽しめることはないかと考え、フライパンで野菜を炒めるパフォーマンスを思いついたそうです。目の前で自分に出されるラーメンができあがる、という期待感は、美味しいものをさらに美味しく感じさせます。また、野菜入りのラーメンはボリュームアップし、栄養価も高まり、彩りも良くなりました。
 さらに大宮氏は、味噌ラーメンを生み出しました。きっかけは1952年(昭和27年)頃、常連客から「豚汁の中にラーメンの麺を入れてくれ」と頼まれたことだそうです。大宮氏自身も味噌好きだったため、新しいラーメンの開発を始めたものの、なかなか納得のいく味にならなかったそうです。このため最初の数年間は、開発中の裏メニューとして常連客だけに出していたそうです。
 この頃、三平の常連客の中にアメリカ領事館に努めるゲイダックさんという人がいたそうです。ゲイダックさんが裏メニューの味噌ラーメンを食べて「これはいい、どんどん研究しなさい」と勧めたことに自信を深め、大宮氏は開発を続けていったそうです。研究の結果、味噌と動物性スープの接点はニンニクにあったことを突き止め、1956年(昭和31年)頃、やっと正式にメニューに「味噌ラーメン」が載ったそうです。
 当時、札幌で麺を作らせれば西山仙治氏の右に出るものはいなかったそうですが、その西山仙治氏は1953年(昭和28年)頃、突然、札幌を離れ、北見に旅立ってしまったそうです。そこで、この後を継いだのが、1949年(昭和24年)に札幌にやってきた西山仙治氏の従弟である西山孝之氏(後の西山製麺(株)、初代社長)でした。
 仙治氏の技術を受け継いだ孝之氏は、大宮氏の味噌ラーメンに合う麺の開発に着手しました。同時に松田氏のこってりスープに合う麺も開発していましたが、味噌ラーメンの方がこってり度は高く、難易度が高かったそうです。最初に試作した麺は太く、まるでうどんのような麺だったそうです。しかし、この麺は食感が今一だったそうです。そこで、麺を細くするために小麦粉のグルテンを強くしてコシを出したり、スープとよくからまるように麺をちぢれさせたり、さらには麺にも自己主張をもたせるべく、卵を加えて黄色くするなどの改良が加えられました。孝之氏は大宮氏とともに試行錯誤を重ね、ようやく味噌スープに合う、これぞ札幌ラーメンと言えるような王道の麺が完成したそうです。
 このような環境も、北海道という土地柄が影響しているのではないでしょうか。明治時代、屯田兵による開拓が進んだ北海道には、助け合いの精神があり、松田氏や大宮氏は食とは関係ないところからラーメンの屋台を始めたにも関わらず、西山仙治氏は麺づくりで協力を惜しみませんでした。また、大宮氏にスープを教えたのは松田氏ですし、大宮氏は後に味噌スープの秘伝を聞かれると惜しみなく教え、それが札幌ラーメンの発展につながったと考えられます。
 「だるま軒」の製麺部門を独立させ、西山製麺(株)を立ち上げた西山孝之氏は様々なラーメン店と共同で麺の研究を重ね、のどごしが良く、見た目もきれいな、太めでちぢれた黄色い玉子麺を作り上げました。現社長の西山隆司氏によると、西山製麺(株)で作っているラーメンの麺の種類は100種類を超えているそうです。それぞれに趣向を凝らす札幌のラーメン店のこだわりに合わせ、原料の配分、太さ、ちぢれ具合、こね具合、色などを変え、その店のスープに合うように麺を作っているうちに自然と増えてしまったそうです。
 昭和30年後半から40年代にかけて全国の百貨店などの北海道物産展で札幌ラーメンの実演販売が行われた結果、大きな反響を呼び、全国的な札幌ラーメンブームが起き、全国的に名前が知られるようになりました。現在では、札幌市内のラーメン店の数は2,000軒ほどもあると言われているそうです。