カツ丼

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更新日:
 2018年12月3日


◎カツ丼(2018年11月10日)
 カツ丼は丼鉢に盛った御飯の上に豚カツを乗せた日本の丼料理です。日本国内において現在、最も一般的なカツ丼のスタイルは、「豚カツとタマネギを醤油味の割下で煮込み、卵とじにして、米飯にのせた料理」だと思います。単に「カツ丼」と呼んだ場合は、一部地域(特に福井県、山梨県、群馬県、岡山県、沖縄県)を除いて、この形態が「カツ丼」の基本形だと思います。(これ以外の地域は、ソースカツ丼などが「カツ丼」と呼ばれています。これらの地域では、このカツ丼は「玉子とじカツ丼」とか、「煮カツ丼」などと呼ばれるようです。)
 このカツ丼発祥の店には諸説あるようですが、東京、早稲田にあった三朝庵というお店が発祥という説が広く流布しています。(残念ながら、三朝庵は2018年7月31日、閉店しました。)三朝庵は江戸時代から続くと言われる老舗そば屋です。早稲田実業学校卒の2代目店主、加藤鷹久(かとう・たかひさ)氏の著書「大隈重信候と学園内商店主の在り方」によると、現在の小石川後楽園の近くでそば屋「三河屋」を営んでいた初代店主、加藤朝治郎(かとう・あさじろう)氏が、1906年(明治39年)9月、前身の「平野庵」からそば打ち道具などを買い取って地主、家主だった早稲田大学創設者、大隈重信(1838~1922年)と賃貸借契約を結んだそうです。朝治郎氏が「三河屋の朝(ちょう)さん」と呼ばれていたことから店名を「三朝庵」に改めたそうです。
 その後、大隈家から土地を譲り受けて商売を続けたそうです。店の暖簾には「早稲田最老舗」と書かれ、「元近衛騎兵連隊御用」、「元大隈家御用」という看板も掲げられていました。「三朝庵カツ丼発祥説」はテレビや雑誌などを通じて広く伝わっており、同店ではかつお出汁で煮て、卵でとじるカツ丼が提供され、昼時は老若男女問わず多くの客でにぎわっていました。
 2代目、鷹久氏から伝わる話では、大正初期は高級な洋食屋でしか食べられなかったトンカツでしたが、肉屋がコロッケなどの揚げ物と一緒に売り出すようになったため、1918年(大正7年)頃、特別なお客さんの宴会があった時に小石川後楽園時代の知り合いの肉屋からトンカツを仕入れて出すようになったそうです。ところが、宴会によっては欠席があったりキャンセルがあったりして、高価なトンカツが余ってしまったそうです。朝治郎氏は「冷めたトンカツは客に出せない。なんとかならないか。」と考えていると、常連の学生から「卵丼みたいにしたら」との提案があり、そばつゆで煮て卵でとじて作ってみたところ、次第に評判になっていったとのことです。
 これとは別に早稲田発祥説があります。「早稲田大学八十年史」を執筆した、早稲田大学の非常勤講師で職員でもあった故・中西敬二郎(なかにし・けいにろう)氏が、高等学院の生徒だった時に考案したという説です。「早稲田大学史紀要 VOL II No.1」(1967年)に書かれた「かつ丼誕生記」には、穴八幡宮付近にあった「カフェーハウス」という店で、常連となっていた中西氏がカツ丼を開発したというエピソードが書かれているそうです。
 1921年(大正10年)2月、当時、早稲田大学周辺の飲食店は10店もなく、「高田牧舎」、「三朝庵」、「大野屋」かミルクホール(軽食店)が昼食をとる店だったそうです。カフェーハウスは、当時、早稲田通りを横切るように流れていたカニ川(蟹川とも、金川とも伝えられています)にかかる橋のたもとにあり、下宿住まいだった高等学院1年生である18歳の中西氏は毎日、利用していたそうです。
 カレーとカツ飯を交互に食べていた中西氏はさすがに飽きがきて、同じ料理の形を変えようと思い立ち、ある日、店のキッチンに入った中西氏は、皿に乗っていたカツ飯を丼に変えて、カツを切ってその上に載せ、ウスターソースと小麦粉をフライパンで煮合わせ、とろみがついたソースを丼にかけて、エンドウをふりかけて食べてみたそうです。乙な味がしたという中西氏は、カフェーハウスの店主を説き伏せて、自ら「カツ丼」と名付けて特売品にさせたそうです。カツ丼は友人たちの評判もよく、中西氏は「カツ丼誕生」と書いたチラシを店に張り出したところ、学生たちは大喜びして、注文が殺到したそうです。
 それから60年を経た1981年(昭和56年)4月27日付けの朝日新聞の「東京食図鑑」というコラムに「カツ丼を誕生させたのは早稲田大学の予科生だったというのがもっぱらの話。この学生の名前がわかったらいまなら大隈さんと同じくらいの銅像が建つかも知れない」と書いてあるのを中西氏は発見したそうです。そして、「実はその学生が私です」というはがきを同社に送ったところ、「中西流カツ丼」は1981年(昭和56年)6月3日付けの朝日新聞で、「われこそはカツどんの祖」との見出しが付けられ、写真と共に大きく取り上げられたそうです。中西流をカツ丼の発祥とする説は、こうして定説として広まっていったようです。
 料理研究家、小菅桂子氏の「にっぽん洋食物語」(1983年、新潮社)で、中西氏はインタビューに応じて「ただカツライスを丼に入れただけのことなんですが、感覚がちがって目新しく見えたんでしょう。あっという間に早稲田界隈の飲食店に広まり、四月には銀座、日本橋でもカツ丼のメニューを見かけるようになりましたが、もっと驚いたのは、夏休みに大阪へ帰ったら道頓堀の飲食店にもあった、さすが食い倒れの大阪だと思いましたね」とも語っています。
 中西氏の説は1921年なので、1918年頃とする三朝庵説の方が古いということになりますが、中西説は、その起源が1967年の文献に残されており、資料上で確認できるカツ丼起源説としては最も古いものといえるかもしれません。
 いずれにしてもカツ丼の発祥は早稲田にあるようです。