牛タンのお話

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更新日:
 2011年7月3日


◎牛タン(仙台)(2011年7月3日)
 「牛タン(ぎゅうたん)」とは、牛の舌のことです。数十cmの長さがあり、薄切りないし、細切れで食用にされます。「タン」は、英語の「舌」を意味する「tongue」の音に由来していると言われています。
 焼肉屋さんでも「牛タン」が出されますが、料理としての「牛タン」は、宮城県仙台市が有名です。仙台の牛タン専門店では、牛タン焼きに麦飯やテールスープをつけた牛タン定食が供されることが多いです。
 仙台の牛タンは、店によって薄切りから厚切りまで様々ありますが、一般的な焼肉屋の牛タンと比べると厚く、しかも柔らかく焼いてあります。また、牛の舌の付け根付近は、生育法によっては霜降り状になるため、特別に「芯タン」、「トロタン」などと呼んで、一般の牛タンとは別メニューとして出されることが多いです。味付けは「タン塩」のほか、「味噌」や「からし味噌」といったタンの味噌漬けの焼肉もあります。
 仙台では、牛タン焼き以外にもタンシチューや牛タンしゃぶしゃぶ(冬季限定)、生のままのタン刺しや牛タン寿司などを取り揃える店もあります。さらにお土産物用として、燻製や佃煮などもあります。
 この仙台で有名な「牛タン焼き」は、焼き鳥店「太助」の初代店主、佐野啓四郎氏が生み出しました。佐野啓四郎氏は、山形県西里村(現、河北町)の農家の二男として生まれ、戦時中に焼き鳥の屋台を引いたりして花巻市、白石市、宮城県柴田町などを転々とし、戦後間もなく仙台にやってきたそうです。終戦後、仙台でおでんや焼き鳥の屋台をやっていたそうです。当時、豚のホルモンを使った料理を考案したところ、人気になったそうです。しかし、すぐに他店に真似をされたことから、他店に真似をされない料理を探していたそうです。
 佐野啓四郎氏は苦しい胸の内を、洋食屋を経営していた親友の小野さんに相談したそうです。すると何日か後、小野さんから「お店で牛タンを出してみたらどうか?」と提案されたそうです。和食では通常、扱うことがなかった素材でしたが、職人としての好奇心から、どんなに美味しいものかと思い、小野さんの勧めに従って、小野さんの知人の洋食屋に行き、タンシチューを食べたそうです。
 佐野啓四郎氏は「コクがあって本当に旨い!」と感動し、「牛タン」という素材が持つ魅力に惹かれたそうです。しかし、タンシチューは3日も4日もかけて、じっくり煮込んで作る料理のため、焼き鳥の店では適さないため、この食材をどのように活かせば良いか、試行錯誤を繰り返したそうです。
 研究を始めたところ、佐野啓四郎氏は、すぐに困った問題に当たったそうです。というのは、牛タン自体が仙台市内では手に入れられなかったそうです。そこで牛タンを求めて、宮城県内のと畜場や山形県内のと畜場に電話をし、運良く牛タンが見つかると後日に取りに行くとお願いをして、牛タンを確保するという日々が続いたそうです。
 最初は牛タンの皮の剥き方も何も分からず、手には切り傷が絶えなかったそうです。連日、牛タン相手に悪戦苦闘した結果、切り身にして塩味で寝かせて焼く現在の手法を思いついたそうです。そこで作業場にこもって牛タンの切り身の厚さ、包丁の入れ方、熟成期間、塩の量、塩の振り方、炭火の火力、焼き加減など、あらゆる角度から研究を重ねたそうです。
 佐野啓四郎氏は、1948年(昭和23年)に店を「かき徳」脇に移転し、「太助」と名付けました。「太助」という店名の由来は、当時、近所の飲み屋の経営者は戦争未亡人などの女性が多かったそうで、酔客のケンカのたびに佐野啓四郎氏が「助け」を求められ、仲裁していたのだそうです。お店の屋号を決める時に保健所の人から「一心太助(いっしんたすけ)」にしたらどうか、と提案され、「一心」を消して「太助」と命名したそうです。
 太助のメニューに牛タンが登場したのは1950年(昭和25年)頃だそうです。当初は、おっかなびっくりで、佐野啓四郎氏自身も、お客様の口に合うかどうか確かめながら販売する毎日だったそうです。また当時、1週間かけて宮城県内や山形に買い出しに行っても牛タンは10本も集まらなかったそうです。牛タン1本から25枚前後しか取れないため、1人前は3枚限定としたそうです
 佐野啓四郎氏が牛タン焼きを発明しても、しばらくは、牛タン料理は市民に認知されなかったようです。もともと外食産業から生まれた料理であり、家庭で食べられることは殆どないため、当時は、一部の愛好者が食べる程度だったようです。
 1952年(昭和27年)、店舗を稲荷小路に移転し、牛タン専門店となりました。(その後、「太助」は1977年(昭和52年)に現在の「味太助」本店の場所に移転しました。)当時、タンの皮を剥いて、包丁で一枚一枚スライスし、塩を振って浸み込ませ、水分を抜くと同時に低温熟成させてから焼いていたそうです。低温熟成は3~4日もすると黒くなって見た目が悪くなるため、1晩の熟成になったようです。最初は4坪くらいの小さな店で、お客さんは東北大学医学部の学生や、出入りの製薬会社の人がほとんどだったそうです。栄養価が高く、美味しいということで口コミで評判が広がり、徐々に客が増え、看護師さんの要望に合わせてテールスープ付きの定食も出すようになったそうです。
 その後、高度経済成長期を迎え、他都市から仙台への転勤族や単身赴任者が増えると、外食する人が増え、昼食時や夜の街で仙台牛タン焼きの認知度があがっていったようです。さらに仙台に赴任していた人が東京に戻り、サラリーマンの間で仙台牛タン焼きが評判になっていき、全国的な認知度が上がっていったようです。
 事業がうまくいくようになった頃、佐野啓四郎氏の長男の佐野和男氏は、お店の運営の方針を巡って佐野啓四郎氏と対立し、1960年代に店を出たそうです。後継者が不在となった佐野啓四郎氏は、当時、「太助」で5年ほど修業しており、そろそろ独立しようと考えていた八勇氏にお店の跡継ぎとして長女の娘婿となることを提案し、八勇氏が受け入れたことで、佐野啓四郎氏の味、作り方は全て長女の娘婿となった佐野八勇(さのはつお)氏に引き継がれました。佐野八勇氏は「旨味太助」というお店で曹宇業当時の佐野啓四郎氏の牛タンを提供しています。
 仙台の牛タン焼きの誕生時の話として、終戦後、仙台に駐留していたアメリカ兵が牛肉を食べていて、食べなかった牛タンが余っていたため、これを利用したのが始まりという説があるそうです。しかし、当時、アメリカ進駐軍はアメリカ本土から解体した牛肉を輸入しており、食べない牛タンは輸入されていなかったそうです。また、食べるために輸入していたのであれば、余りがでるはずもなく、この説は全くの出鱈目だそうです。
 また、当時、宮城県内では裕福な農家しか牛を飼うことが出来なかったそうです。宮城県内や山形県内のと畜場で1週間に2~3頭くらいしかと畜されなかったそうです。佐野啓四郎氏は、と畜予定の牛のタンを予約をして、確保でき次第、それを集めてきて使っていたそうです。
 近年になって、牛タンが高蛋白質の割に脂肪が少ないことがマスメディアで紹介されるようになり、ヘルシー志向の人たちにも受け入れられ、さらに人気が高まっていったようです。その後、1991年に始まった牛肉輸入自由化によって安価な材料が入手できるようになり、それ以前は老舗業者しかなかった牛タン屋が、爆発的に増えたようです。
 仙台牛たん独特の風味には、塩と胡椒で一晩寝かせる「仕込み」が欠かせないのだそうです。昔ながらの塩加減、職人の技に頼ったカットの技巧は、太助の誇りだそうです。しかし、安さや量産を重視して、精肉店が加工処理した肉を店頭で焼くだけの店や、「柔らかい=高級」という消費者の好みに応じて添加物を使って肉を柔らかくする店も出現してきたそうです。2006年には、この「添加物で肉を柔らかくしている店がある」という薬品疑惑が週刊誌に書き立てられたそうです。添加物自体は、違法なものではなかったものの、業界には傷を残しました。この騒動は仙台牛たんへの注目度をさらに上げることになり、現在も多くの店がその味を競っています。

・仙台の牛タン定食(牛タン、麦めし、テールスープのセット)



・牛タンのアップ