旨味太助

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更新日:
 2021年1月17日



◎旨味太助(2020年12月20日)
 仙台で有名な「牛タン焼き」は、焼き鳥店「太助」の初代店主、佐野啓四郎氏が生み出しました。佐野啓四郎氏は、山形県西里村(現、河北町)の農家の二男として生まれ、戦時中に焼き鳥の屋台を引いたりして花巻市、白石市、宮城県柴田町などを転々とし、戦後間もなく仙台にやってきたそうです。終戦後、仙台でおでんや焼き鳥の屋台をやっていたそうです。当時、豚のホルモンを使った料理を考案したところ、人気になったそうです。しかし、すぐに他店に真似をされたことから、他店に真似をされない料理を探していたそうです。
 佐野啓四郎氏は苦しい胸の内を、洋食屋を経営していた親友の小野さんに相談したそうです。すると何日か後、小野さんから「お店で牛タンを出してみたらどうか?」と提案されたそうです。和食では通常、扱うことがなかった素材でしたが、職人としての好奇心から、どんなに美味しいものかと思い、小野さんの勧めに従って、小野さんの知人の洋食屋に行き、タンシチューを食べたそうです。
 佐野啓四郎氏は「コクがあって本当に旨い!」と感動し、「牛タン」という素材が持つ魅力に惹かれたそうです。しかし、タンシチューは3日も4日もかけて、じっくり煮込んで作る料理のため、焼き鳥の店では適さないため、この食材をどのように活かせば良いか、試行錯誤を繰り返したそうです。
 研究を始めたところ、佐野啓四郎氏は、すぐに困った問題に当たったそうです。というのは、牛タン自体が仙台市内では手に入れられなかったそうです。そこで牛タンを求めて、宮城県内のと畜場や山形県内のと畜場に電話をし、運良く牛タンが見つかると後日に取りに行くとお願いをして、牛タンを確保するという日々が続いたそうです。
 最初は牛タンの皮の剥き方も何も分からず、手には切り傷が絶えなかったそうです。連日、牛タン相手に悪戦苦闘した結果、切り身にして塩味で寝かせて焼く現在の手法を思いついたそうです。そこで作業場にこもって牛タンの切り身の厚さ、包丁の入れ方、熟成期間、塩の量、塩の振り方、炭火の火力、焼き加減など、あらゆる角度から研究を重ねたそうです。
 佐野啓四郎氏は、1948年(昭和23年)に店を「かき徳」脇に移転し、「太助」と名付けました。「太助」という店名の由来は、当時、近所の飲み屋の経営者は戦争未亡人などの女性が多かったそうで、酔客のケンカのたびに佐野啓四郎氏が「助け」を求められ、仲裁していたのだそうです。お店の屋号を決める時に保健所の人から「一心太助(いっしんたすけ)」にしたらどうか、と提案され、「一心」を消して「太助」と命名したそうです。
 太助のメニューに牛タンが登場したのは1950年(昭和25年)頃だそうです。当初は、おっかなびっくりで、佐野啓四郎氏自身も、お客様の口に合うかどうか確かめながら販売する毎日だったそうです。また当時、1週間かけて宮城県内や山形に買い出しに行っても牛タンは10本も集まらなかったそうです。牛タン1本から25枚前後しか取れないため、1人前は3枚限定としたそうです
 佐野啓四郎氏が牛タン焼きを発明しても、しばらくは、牛タン料理は市民に認知されなかったようです。もともと外食産業から生まれた料理であり、家庭で食べられることは殆どないため、当時は、一部の愛好者が食べる程度だったようです。
 1952年(昭和27年)、店舗を稲荷小路に移転し、牛タン専門店となりました。(その後、「太助」は1977年(昭和52年)に現在の「味太助」本店の場所に移転しました。)当時、タンの皮を剥いて、包丁で一枚一枚スライスし、塩を振って浸み込ませ、水分を抜くと同時に低温熟成させてから焼いていたそうです。低温熟成は3〜4日もすると黒くなって見た目が悪くなるため、1晩の熟成になったようです。最初は4坪くらいの小さな店で、お客さんは東北大学医学部の学生や、出入りの製薬会社の人がほとんどだったそうです。栄養価が高く、美味しいということで口コミで評判が広がり、徐々に客が増え、看護師さんの要望に合わせてテールスープ付きの定食も出すようになったそうです。
 その後、高度経済成長期を迎え、他都市から仙台への転勤族や単身赴任者が増えると、外食する人が増え、昼食時や夜の街で仙台牛タン焼きの認知度があがっていったようです。さらに仙台に赴任していた人が東京に戻り、サラリーマンの間で仙台牛タン焼きが評判になっていき、全国的な認知度が上がっていったようです。
 事業がうまくいくようになった頃、佐野啓四郎氏の長男の佐野和男氏は、お店の運営の方針を巡って佐野啓四郎氏と対立し、1960年代に店を出たそうです。後継者が不在となった佐野啓四郎氏は、当時、「太助」で5年ほど修業しており、そろそろ独立しようと考えていた八勇氏にお店の跡継ぎとして長女の娘婿となることを提案し、八勇氏が受け入れたことで、佐野啓四郎氏の味、作り方は全て長女の娘婿となった佐野八勇(さのはつお)氏に引き継がれました。
 佐野八勇氏は1966年(昭和41年)頃、仙台市内の和食店で働いていたそうですが、当時働いていた店のオーナーから「今度牛タン焼き店を開店するので『太助』に修行に行ってくれ」と言われたそうです。「太助」も牛タンが口コミで有名になり、お客が増えてきたものの、牛タンを料理する職人が不足していたので、受け入れたそうです。八勇氏にとっては和食店より、仙台名物になりつつある牛タン料理を覚えることは将来、店を持つ時に有望だと考え、承諾したそうです。しかし、実際は思っていた以上の厳しい修行が待っていたそうです。
 「太助」の店主、佐野啓四郎氏は人知れず苦労して牛タン焼きの店を築いただけに、仕事に対しては大変厳しく、職人の包丁使いがまずいと「目で覚えるな、身体で覚えろ」と、包丁の背で手を叩いたり、牛タンを焦してしまうと「誰が食べるのだ。その焼き方でお客が喜ぶか。」などと怒られたそうです。また、「味が分からなくなるから酒もタバコも止めろ」と、仕事に対する姿勢の厳しさから、修行に入った職人の10人中8人が辞めてしまうほどだったそうです。
 八勇氏は、そのような佐野啓四郎氏の厳しい修行に耐え、最初は一人前になったら前のオーナーの元で独立して店を持つつもりだったそうです。しかし5年程、「太助」で職人として修行していた頃、佐野啓四郎氏と前の店のオーナーとの間に八勇氏を「太助」の婿養子にしたいという話が進んでいたそうです。
 「太助」は繁盛していたものの、佐野啓四郎氏があまりにも厳しいため、せっかく一人前になりかけていた職人も辞めてしまい、牛タンの技術を引き継ぐ者がいなかったそうです。長男が二代目を継ぐはずでしたが、長男は佐野啓四郎氏と店の運営の仕方で対立し、1960年代に店を出てしまったそうです。長女は父親の補佐として店を手伝っていたそうですが、後継者がいなくなり、「太助」にとって存続の危機となってしまったそうです。
 佐野啓四郎氏は知人であった八勇氏の元の和食店オーナーに相談したところ、「太助」で長年修行している八勇氏の名前が挙がったそうです。店を継ぐには牛タン焼きの技術が必要な上、佐野啓四郎氏の指導に耐えられる人でないといけません。丁度、その頃、八勇氏は牛タンの修行も終わりに近く、仙台市内に自分の店を出すことを考えていたことから、タイミングが良かったようです。
 しかし八勇氏は、突然、佐野啓四郎氏の長女の婿になり、「太助」の二代目になれと言われて、躊躇したそうです。そろそろ独立し、自分の店を持というと考えていた頃だったのに、佐野啓四郎氏の後を継ぐとなると、更に修行をしなければならなくなるため、断ろうかとも思ったそうです。しかし、せっかく佐野啓四郎氏が苦労の末、牛タンを仙台の名物にしたのに、たった1代で終わらせるのは残念だと考えなおし、八勇氏は長女の婿になり、「太助」の二代目になることを決意したそうです。
 そして八勇氏は1970年(昭和45年)に結婚し、佐野八勇となりました。そこからは「太助」の二代目として恥ずかしくないよう、店主としての本格的な修行が始まったそうです。牛たんの切り身の厚さ、包丁の入れ方、熟成期間、塩の量、塩の振り方、炭火の火力、焼き加減など、あらゆる角度から厳しい指導がされたそうです。当時、店の定休日は第1、3、5の日曜日だったそうですが、平日にと畜場に電話をして依頼しておき、休みの度に、佐野啓四郎氏と一緒に宮城県内や山形の農家を回り、牛タンを集めていたそうです。結局、佐野八勇氏は1966年(昭和41年)の秋口から1978年(昭和53年)のお盆まで、休みをもらえたのは1年のうちの8月16日(お盆)と正月の元旦だけだったそうです。
 佐野八勇氏は1973年に旨味太助をオープンしました。佐野八勇氏の話では、1982(昭和57)年か1983(昭和58)年頃、宮城県と仙台市の観光担当の方が来て、牛たんを名物として売り出したいと提案したそうです。許可したところ、1週間もしないうちにテレビや新聞、いろいろな媒体が県や市から聞いたって、アポなしで取材に来たのだそうです。メディアへの露出で全国区となり、店舗の数も急増していったようです。
 「旨味太助」では、事前にカットしたタンに塩胡椒をして重ねて、50〜60cmくらいの高さにして、1日熟成させています。注文後に牛タンタワーから、必要な枚数の牛タンスライスを取って、炭火で焼いていきます。創業以来、「牛タンの旨さを最大限に活かすのは塩である」という初代、佐野啓四郎氏の教えを受け継ぎ、今も変わらず、創業当初の「太助」の牛たん焼の味を伝えているそうです。仙台に行ったら、一度、「旨味太助」の牛タンを食べてみたいですね。

・旨味太助(うまみたすけ)
 住所:宮城県仙台市青葉区国分町2-11-11 千松島ビル 1F
 TEL:022-262-2539
 営業時間:11:30〜22:00
 定休日:月曜日
 駐車場:無
 アクセス::JR、仙台駅から徒歩約15分
 カード:不可
 席数:20席