エビフライ、海老フライ

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更新日:
 2020年4月25日



◎エビフライ(2020年4月25日)
 エビフライ(海老フライ)は、海老を多量の食用油で揚げた料理です。日本で発展したフライ料理の1つであり、代表的な洋食料理です。フライにする海老に決まりはなく、高級店では主に車エビが使用されますが、高価であるため、一般的にはブラックタイガー(ウシエビ)を使用する店が多いようです。他にも、高級店ではコウライエビ(大正エビ)、イセエビ、ニシキエビなどを使う例もあるようです。冷凍食品などでは安価なバナメイエビが使用されることが多いようです。
 エビフライは、洋食屋さんで出るメニューにあり、中華料理、フレンチやイタリアンの店ではメニューに載っていないと思います。現在では洋食屋だけでなく、とんかつ屋や蕎麦屋のメニューに載っているので和食、あるいは日本で生まれた洋食だと考えられます。そもそもエビフライの発祥は、いつ、どこなのでしょうか。
 1872年(明治5年)に刊行された仮名垣魯文の「西洋料理通」の「魚之部」にはフライ料理が紹介されているそうですが、材料はヒラメとカマスだけしか載っていないそうです。海老はカレーの具として登場しているそうですので食材としては利用されていたものの、フライにはしていなかったようです。
 同じ1872年(明治5年)に刊行された敬堂学主人の「西洋料理指南」の「魚類」の項は、冒頭に「魚の油煮は世俗(よに)「テンプラ」と云、鯛、鮃、鰈、鱸、鱈、其侘(そのた)赤色を帯びたる小魚又白魚の淡味の魚を用ゆ」と書かれているそうです。ここでは「テンプラ」と書かれていますが、調理方法は小麦粉、卵黄、パン粉をつけて揚げるとあり、現代で言う「天ぷら」ではなく、「フライ」のことです。しかし、ここでも「エビ」は「フライに適した素材」には入っていません。同書で紹介されているエビの調理方法は、ゆでて芥子、酢、サラダ油、砂糖と一緒にあえるというものだそうです。
 1885年(明治18年)11月4日付の「時事新報」には、「フラヰ老海」という文字が載っているそうです。これは、東京の八丁堀北島町(現在の中央区日本橋茅場町)にあった「松の家」が「松の家洋食上等献立」と題し、毎日の献立を載せていた広告内での記述だそうです。また、翌1886年(明治19年)年1月11日付の「松の家」の広告には、「ヱビフニラ」という、意味不明の文字も載っているそうです。この広告は誤植が多かったようで、これらのメニューが「エビフライ」を指している可能性は高いと考えられ、これが日本で最初に「エビフライ」が載った文書だと考えられているそうです。
 これ以降、西洋料理の本には魚のフライは必ずと言っていいほど紹介されているものの、エビを使ったフライの調理法は見つからないそうです。料理書に突然、エビフライらしき記述が現れるのは、西洋料理が普及し始めた明治20年代後半になってからだそうです。
 1895年(明治28年)に刊行された「日用百科全書 第三編 実用料理法」(大橋又太郎編、博文館)には「フライ」と題して、「伊勢エビもしくは車エビを使った料理」が紹介されているそうです。しかし衣は小麦粉、卵のみでパン粉は使われていないそうです。こちらは、現代で言う「天ぷら」のようです。
 同じ1895年(明治28年)に刊行された「家庭叢書 第8巻 簡易料理」(民友社編)には、エビフライだと断定できる料理が載っているそうです。「魚類の「フライ」を製するには淡白なる魚類(譬へば鯛、比目魚(ひらめ)、鯊(はぜ)、あなご、鮎、鯵等)を切身にするか、小魚ならば腸(わた)をぬきて全身(まる)のまゝに脂揚(あぶらあげ)を為すべし、蝦(えび)は伊勢蝦若しくは車蝦の頭を背より二つに開き背腸(せわた)を抜きて水で洗ひし米利堅粉(めりけんこ)にくるみ卵黄(きみ)をぬり麺麭粉(ぱんこ)に轉(ころ)ばし脂揚(あぶらあげ)を為すこと前に述べたるが如し」との記載があるそうです。
 さらに、同書にはオニオンソースと並んで「エッグソース」と称する、ゆで卵とバターを混ぜたタルタルソースもどきのレシピがあり、ステーキやフライ、カツレツにかけて食べるべしと書かれているそうです。
 明治初期にはなかったエビフライが、明治20年代後半には、いつのまにか魚のフライと同列に語られるようになっています。しかもタルタルソースを添えるという食べ方まで生まれています。本への書かれ方から、新しい料理の紹介ではなく、既にエビフライが一般的になっていたと考えられます。
 一部、エビフライの発祥が東京の老舗洋食屋、煉瓦亭(れんがてい)だとする説がありますが、煉瓦亭の創業が1895年(明治28年)ですので、上述した1885年(明治18年)の「時事新報」や1895年(明治28年)に刊行された本への記載等から、エビフライは煉瓦亭発祥ではないと思います。煉瓦亭が創業した1895年には、既にエビフライは一般的な洋食メニューになっていた可能性が高いと思います。
 西洋料理が導入された頃にはなかった「エビフライ」は、何故、考案され、普及するようになったのでしょうか。これは天麩羅と似た料理ということがポイントだったのかもしれません。天麩羅は江戸時代に食べられていた料理です。現在では卵を入れた衣が一般的ですが、江戸時代は水で溶いた小麦粉を衣として使っていたそうです。また、天麩羅のタネは、魚介類が中心でした。
 1837年(天保8年)から30年間にわたって喜田川守貞が江戸の風俗を記した百科事典「守貞漫稿」には、てんぷらのタネとして江戸前のアナゴ、シバエビ、コハダ、貝柱が挙がっているそうです。すなわち、エビの衣揚げは、江戸時代から食べられていた料理なのです。そこに西洋料理が入ってきて、天ぷらとは異なる調理法の「魚のフライ」が広まりました。当時の料理書には、たいてい「てんぷらの西洋版」として紹介されているそうです。そうだとすると、フライの種に「エビ」を使うという発想は、誰かが思いついてもおかしくありません。
 東京をはじめ日本各地に西洋料理店が開店したのは、明治10~20年代にかけてのことです。その代表的なメニューの1つが「フライフィッシュ」、つまり「魚のフライ」でした。上述した「時事新報」の「松の家」の広告にも、「魚フライ」は頻出しているそうです。「松の家」が発祥とは言えませんが、当時、既にエビフライを作って提供している洋食屋があってもおかしくないと考えられます。
 どこが発祥のお店かは分かりませんが、1店舗がエビフライを作れば、すぐに真似をする店が出てもおかしくありません。こうして徐々に広まっていき、明治20年代後半には料理書に紹介されるほど、一般的なメニューになったのではないでしょうか。
 1906年(明治39年)に刊行された「食道楽続編 夏の巻」(村井弦斎著、報知社)には、「海老料理」の項目に、伊勢エビを使った「海老のカツレツ」の作り方が紹介されているそうです。これは伊勢海老のエビフライのことです。さらに大正時代になると、新聞記事にも頻繁にその名が出てくるようになるそうです。
 このエビフライは、戦後になると一気に大衆化が進むそうです。その理由は、冷凍エビフライの登場だそうです。1962年(昭和37年)、冷凍水産品の製造と販売を行っていた加ト吉水産(現、テーブルマーク)が冷凍食品の「赤エビフライ」を発売しました。これをきっかけに、エビフライはお弁当のおかずとしても人気となります。
 その人気の高さのせいか、1970年代後半にはちょっとした騒動が起きたそうです。1977年(昭和52年)1月19日付の朝日新聞、朝刊には、「冷凍エビフライ衣替え論争」として、その騒動が詳しく報じられています。それによると、消費者から「冷凍エビフライの衣が厚すぎる」との声があがり、衣の厚さをめぐってトラブルが起きたそうです。前年の冷凍エビフライの生産高は1万8500トンで、冷凍食品全体の4割を占めるほどの人気ぶりだったそうです。売れるにつれ、消費者の目が厳しくなる一方、業界側は衣を薄くすると冷凍した時に衣がはがれてしまうため、衣の厚さを調整していると反論し、間に立つ農林水産省が、JAS(日本農林規格)を定めようにも定められずにいる様子が記されていたそうです。
 最終的に、この騒動が決着したのは、翌1978年(昭和53年)です。それまで業界は、衣の重さをエビフライ全体の60%以下に抑える自主規制を設けていたものの、JASの規定により50%以下という基準になったそうです。たった10%ですが、その10%をめぐってトラブルが起きたほど、エビフライに対する人々の要求が厳しいということでしょうか。