明石焼きのお話

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更新日:
 2012年6月2日


◎明石焼(2012年6月2日)
 明石焼きとは、タコヤキに似たような料理として知られていますが、全く異なる料理です。東京などで「明石焼」と呼ばれている食べ物は、地元、明石では「玉子焼」と呼んでいます。この玉子焼は、大阪でたこ焼きが生まれるヒントになった料理のようです。
 明石の玉子焼は、小麦粉、じん粉、玉子とタコを使って、銅板の上で焼きます。じん粉とは、「沈粉」と書きます。ジン粉とは、明石地方の方言で、一般には「ウキ粉(浮粉)」と呼ばれているものです。これは小麦粉の澱粉質で、熱を加えても固まらないという性質を持っています。このジン粉と小麦粉の比率で、玉子焼の柔らかさが変わります。当然、この比率は店によって異なり、いわゆる企業秘密になっています。
 また、タコ焼きとは異なり、焼く時に引っくり返すのは、箸を使うようです。柔らかいから箸で持たないといけないのではないでしょうか。お店では、焼き上がった玉子焼を「上げ板」と呼ばれる四角い板の上に乗せて供されますが、その柔らかさのため、上げ板の上では、扁平な形になっています。
 焼き上がった明石焼は柔らかいため、一個、一個、皿などに移すのは面倒です。そこで、鍋に蓋をする要領で板をかぶせ、一気に返して、乗せるのだそうです。この上げ板は、裏側に下駄の歯のようなものがあり、斜めに傾くようになっています。このためテーブルに置いた場合、自分から遠い場所が高くなり、取りやすくなっています。
 そのままで食べても美味しいですが、通常は塩をつけて食べるか、昆布のダシ汁につけて食べます。たこ焼きとは全く異なり、全体がふんわりと柔らかく、あつあつとろーりとした生地の中に美味しいタコが入っています。
 明石焼の起源を記した資料や文献は少なく、そのルーツには、いくつかの説があるそうですが、次の説が有力なようです。それは、「明石玉から明石焼が生まれた」という説で、1960年に発行された「明石市史・上巻」という本に記載されているそうです。
 これは、江戸末期の天保年間(1830年~1843年)に、明石にいたべっ甲細工師の江戸屋岩吉に由来するものです。彼は、サンゴの模造品として「明石玉」という宝飾品を開発しました。この明石玉は、玉子の白身を接着剤として、硝石などを固めたもので、珊瑚の替わりとして、カンザシなどに使われたそうです。当時は、大変人気を得ていたようで、明治、大正の頃の記録では、明石の重要な産業の一つとなっていたようです。しかし、明石玉を作れば作るほど、玉子の黄身が残ります。そこで、この不用品の黄身と小麦粉、さらに当時から、沢山、捕れたタコを活用して生まれた料理が玉子焼だというものです。以下は、神戸新聞の2009年4月から5月にかけての特集記事によるものです。
 1884(明治17)年、岩吉の孫弟子となる山口英七が、樽屋町に明石玉の製造所を創業しました。2009年4月現在、田町二に住む山口良子さん(83)は英七さんのお孫さんだそうです。山口さんの話では、「娘の時分、母がよく話してました。『祖父と一緒に明石玉を作っていた人の身内が、黄身を使って明石焼の商売を屋台でやっている』」とのことです。
 また、榎本伸行さんは「まるい『明石玉』を作っていた真ちゅうの『型』が、明石焼の銅鍋とそっくりだった。」と言います。このことから、「明石玉を作っていた人の身内が明石焼を作り始めた」と言うのは、信ぴょう性があるように思えます。
 さらに榎本さんは「発祥は、明石川に架かる大観橋の東、今の樽屋町付近だろう。」と言います。その根拠は1963(昭和38)年の住宅地図で、大観橋東岸の一帯には、明石焼に欠かせない通称「じん粉」ができる「製麩所」が点在していたのだそうです。ほかにも製めん所やお好み焼き店などが多数あり、この地域が「粉もん」の街だった証拠です。
 何より決定的とされるのは、1919年(大正8年)頃、明石焼の屋台を営んでいた向井清太郎さんの住まいが、現在の樽屋町にあったということです。向井さんの玉子焼の味は絶品で、口コミで評判が広がり、当時、とても人気があったそうです。その評判が神戸や大阪にも伝わり、業者が見学に訪れたほどだそうです。これが、後に「たこ焼き」を生むことになったと言われています。
 玉子焼のルーツを探っていくと、向井さんの玉子焼に辿り着きます。明石の玉子焼を語る時、向井さんを抜きには語ることはできません。作家の椎名麟三も稲垣足穂も、戦前に、この向井さんの玉子焼を食べているそうです。明石市内の玉子焼専門店やお年寄りに聞いても、必ず登場するのが向井さんの玉子焼だそうです。
 最初、向井さんは、浜国道の道端に屋台を出して、玉子焼を売っていたようです。また、マダコは茹でて、炭であぶって焦げ目を付け、それから串刺しにして屋台に吊るして、陰干しにしていたそうです。このため味にコクが出ていたそうです。
 この頃の向井さんの玉子焼は、何もつけず、只こんがりと焼いただけのものたっだそうですが、非常に美味しかったそうです。樽屋町の「小野度量衡店」の店主、小野政種さん(86)によると、向井さんの玉子焼は、最初はつけ汁はなく、小皿に取り分けて、熱い玉子焼をそのまま食べてもらっていたとのことです。客が『ソースを添えてほしい』と頼むと、『うちのはそのままで美味しい。味が死んでしまう』と断っていたそうです。
 その後、向井さんの玉子焼は、絶妙の加減でブレンドされた生地を冷たいだし汁で味わうようになったようです。市内に八雲座という芝居小屋があり、そこに出演していた都蝶々、南都雄二さんも向井さんの玉子焼を食べて称賛したそうです。当時は、1個売りもしており、その場ですぐ食べられるよう、冷ましたダシ汁につけて食べていたそうです。
 この向井さんは、昭和30年代の末に、90歳近くで亡くなられたそうです。そして、この頃から明石の玉子焼が有名になっていき、玉子焼のお店も増えていったそうです。
 明石市本町の「魚の棚商店街」で明石焼き専門店を営む「よこ井」は、向井さん直伝の味を受け継いでいるそうです。二代目の横井孝子さん(68)によると「秘伝のレシピの入手は、全くの偶然だった」そうです。
 横井さんの父親の金之助さん(故人)は戦前、向井さんの屋台の常連だったそうです。当時、タクシー会社を経営していた金之助さんは、明石焼の商売を考えていた友人から、向井さんに作り方を聞き出すよう頼まれたそうです。多額の謝礼を申し出ても秘伝の味は教えてもらえないだろうと思っていたところ、意外にもあっさりとメモを手渡してくれたそうです。孝子さんは「常連の気安さもあっただろうが、まさかタクシー会社の社長が明石焼屋を営むとは思わなかったんでしょう」と思いを巡らす。
 1952年(昭和27)年、孝子さんの母が東仲ノ町でお好み焼き店を開業しました。残りのスペースで明石焼でも出そうかと考えていた時、自宅の仏壇の引き出しから、秘伝のメモが見つかったそうです。店が現在の魚の棚に移ってからも、直伝の味は健在だそうです。
 このように明石の玉子焼のルーツは、明石玉と向井さんにあると言えそうです。現在、向井さんの流れをくむ玉子焼店や、逆に大阪のタコ焼の影響を受けた玉子焼店が、明石市内には70軒以上点在しているそうです。また、明石観光協会の明石焼(玉子焼)部会というのに登録されているお店が21軒あり、それぞれの味を誇っています。