すき家

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更新日:
 2020年12月30日



◎すき家(2020年8月25日)
 すき家(すきや)は、ゼンショーホールディングスの100%子会社である株式会社すき家(本社:東京都港区港南、設立:2014年10月1日、代表取締役社長:小川一政)が運営している牛丼チェーン店です。47都道府県で日本国内店舗数最多の合計1,934店舗(2020.年3月現在)を展開しています。店舗の看板には屋号とともに「牛丼」と「カレー」の文字が使われており、牛丼とカレーが主力商品となっています。
 すき家は、ゼンショーグループで最初にチェーン展開が成功したお店です。ゼンショーグループを創業した小川賢太郎氏は1948年7月29日に石川県に生まれました。自衛官だった父親と一緒に国内を転々とする中で勉強をし、1968年に東京大学に入学しました。しかし、この年は全学共闘会議(全共闘)による東大紛争が始まった年です。小川氏は東大全共闘の活動家になったそうです。しかし、翌1969年1月には全共闘が占拠していた東大、安田講堂は機動隊によって解除されました。安田講堂の攻防戦に敗れて挫折した小川氏は1971年、東大を3年で中退し、横浜港の港湾荷役の仕事に就いたそうです。何十トンもある機械を船に積み込む作業で、常に危険がつきまとったそうです。大怪我して入院することもあったそうですが、働きぶりが仲間に認められ、3年目に労働組合の役員になったそうです。
 しかし、1975年に転機が訪れたそうです。港湾労働者を組織して会社の経営陣と闘ってみると、経営陣の認識は労働者よりも上だと感じたようです。そこで経営をゼロから学ぶために中小企業診断士の資格取得を目指して勉強し、これからは外食産業かコンビニエンスストアの時代が来るのではないかと考えたそうです。そして1978年、小川氏は「世界から飢えと貧困をなくすための新たな闘いの第一歩」という決意で、牛丼チェーンの「吉野家」に入社したそうです。店長、経理、人事を経て、経営企画室にいた1980年、吉野家が倒産の危機を迎えました。
 大株主だった新橋商事から派遣されてきた役員が乗り込んできて、小川氏を含めたチームで吉野家の再建計画を立てていきましたが、最終的に独自再建は不可能となりました。この時、新橋商事は25店舗を運営しており、新橋商事の25店を中心として、フランチャイズのオーナーを集めて独自に再建をやると言い出したそうです。そこで小川氏に、一緒に来てくれと説得し、小川氏は吉野家を離れ、新橋商事の外食部門である株式会社ニッショーの財務室長となり、こちらを軸にした再建計画を立てることになったそうです。
 小川氏は1980〜1982年の2年間、25店を中心に再建をやったものの、新橋商事が不動産賃貸業が経営の柱だったため、経営陣との方向性が合わず、「世界から飢えと貧困をなくすためには、自分が先頭に立ってやるしかない」と決意し、3人の部下を引き連れて1982年に新橋商事を退職したそうです。
 そして、資本金500万円で1982年6月30日に株式会社ゼンショーを登記しました。この時、「全戦全勝する」との覚悟を込めて、社名をゼンショーとしたそうです。資金が500万円しかなかったためイートインのお店は展開できず、弁当屋なら箱が小さくて設備投資が小さくて済むと考え、まずは6坪、家賃6万円で1982年7月に神奈川県横浜市鶴見区生麦に弁当店、ランチボックス1号店を開店しました。このエリアには工場が多く、消費者が多い地域と考え、出店したそうです。
 ゼンショーの広報のインタビュー記事や、ネット情報では1982年11月にすき家1号店を開店、あるいは生麦駅前店を開店、とされています。ゼンショーの広報のインタビュー記事では、ランチボックスの経営が上手くいかず、複数のおかずを調理する弁当屋から、牛丼を提供するというシンプルな経営に切り替えた、という説明がされています。
 ところが、小川賢太郎氏は他のインタビューで、全く異なる説明をしていました。ランチボックスは2年半くらいで7店舗を展開したそうです。ただ、このスピードだと世界一になるのに3万年くらいかかるので、このままではいけないと考えたそうです。吉野家で働いていた時、アメリカのハンバーガーと同じ食べ物が日本の牛丼だと感じていたそうです。この点から、牛丼なら、もっと早く、大きなチェーン展開ができると考えたそうです。そこで、1号店となる11坪、15席くらいの小さい店を出したそうです。ただ、この時はまだ、これくらいの資金しかなかったそうです。また、この1号店は失敗だったそうです。
 11坪の店を月商500万円のつもりで出したものの、どうしても330万円しか売れず、家賃11万でも損益分岐点が300万円くらいだったため、プラスマイナスを行き来していたそうです。そこで、こんなことを続けていても意味がないと考え、半年で撤退を決めたそうです。ただ、500万円を投資していたので捨てる訳にはいかず、当時、店舗造作を買い取る会社があり、そこに電話して470万円で買い取ってもらったそうです。当時、その店を買ってくれたのが京都から来た茶月という御寿司屋さんだったそうです。
 1号店の失敗について、小川賢太郎氏は自分の視野が狭くなっていたと反省しています。生麦に本部を構え、1号店を生麦で出したのですが、生麦駅の当時の乗降客は3万5000人だったそうです。この人数では、300〜330万円というのが妥当な売上で、これ以上は無理だったそうです。この失敗から、2号店は東名川崎インターから500メートル手前のところに場所を見つけて、そこで成功したそうです。ただ、成功するために、いろいろと考えたそうです。すでに、このエリアには吉野家が300店舗くらいあったそうです。吉野家はカウンター席しかなく、ガテン系のお客さんが多かったため、すき家はテーブル席を作り、家族もカップルも年寄りも子供も、そして男もサラリーマンも来店する店を作ったそうです。
 ただ、それでも資金が一番のネックだったそうです。最初は10年で店頭公開するつもりだったそうですが、資金繰りが大変で、結局、店頭公開まで15年かかりました。また、最初の100店舗を作るのに11年、かかったそうです。
 以上のことから、少なくとも、1号店は1984年か1985年頃と思われます。場所は生麦で間違いないようですが、1号店は半年くらいしか営業していなかったとのことです。ランチボックスは弁当屋で、小さな店舗のはずですから、ランチボックスを牛丼屋に転換したとも思えません。
 その後、1997年8月に日本証券業協会に株式を店頭登録すると信用力も増え、順調に業績を伸ばし、1999年9月には東京証券取引所第二部市場へ上場し、48億円の公募増資を実施しています。この後は、2000年7月に(株)ココスジャパンの株式を取得、2001年5月に(株)ぎゅあんの株式を取得するなど、次々と買収をしながらグループを大きくしていきました。現在のゼンショーホールディングスは2020年3月期で売上6,304億円、経常利益199億円という巨大な企業に成長しています。
 ちなみに、「すき家」という名前の由来として、次の2つが理由であるとされています。1つ目は、皆から愛される「好き」という意味で、もう1つは牛肉の鍋料理である「すき焼き」の名前から付けられたとのことです。
 なお、すき家の店舗では、横浜発祥ということをいくつかのもので表しています。まず、郊外にある店舗(駅ビルなどではない店舗)ですが、外観が赤いレンガ作りになっています。これは、横浜の赤レンガ倉庫をイメージしているのだそうです。また、この建物の上部には時計が取り付けられています。この時計台は、横浜開港記念会館をイメージしているのだそうです。
 さらにすき家のどんぶりには、この時計台やレンガ作りの建物の絵が描かれています。さらに牛丼を食べ終わると、丼の底には「YOKOHAMA」と書かれています。
 「すき家」は発祥の地である横浜と、明治時代、横浜が開港して外来品が日本に多く入って来て、牛肉文化の始まりとなった横浜にあやかって、象徴的建築物である開港記念会館と赤れんが倉庫のイメージを取り入れているそうです。



・牛丼(並)