吉野家

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更新日:
 2020年9月30日



◎吉野家(2020年8月25日)
 「吉野家(よしのや)」は、牛丼を主力商品とする大手外食チェーンストア(牛丼屋)です。現在は株式会社吉野家ホールディングス((設立:1958年12月27日、資本金:102億6,500万円、本社:東京都中央区日本橋、代表取締役社長:河村泰貴(かわむらやすたか)、略称:吉野家HD)の子会社である株式会社吉野家(設立:2013年12月26日、資本金:1,000万円、本社:東京都中央区日本橋、代表取締役社長:河村泰貴(かわむらやすたか))が運営企業です。ちなみに吉野家の「吉」の字は、正しくは「土(つち)」に「口(くち)」と書くのだそうです。(同社Web siteより)
 吉野家は、1899年(明治32年)に東京、日本橋で松田栄吉氏が創業したとされています。松田栄吉氏は料亭で働いていて、その頃、流行していた「牛めし」に着目し、日本橋にあった魚市場で働く魚河岸の職人達向けのお店として始めたそうです。魚市場の仕事は重労働で長時間にわたるため、短時間で食べられる美味しい料理ということで人気になったそうです。店名は、松田栄吉氏が大阪府西成郡野田村字吉野(現在の大阪市福島区吉野)の出身だったことから「吉野家」としたそうです。
 吉野家は、日本橋でお店を続けていたそうですが、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災によって魚市場が壊滅状態になってしまいました。吉野家も店舗を焼失したそうですが、屋台で商売を再開したそうです。
 当時、東京市は中央卸売市場の計画を進めており、震災を契機として海軍省から築地の用地の一部を借り、暫定的に市設の「築地魚河岸」を設け、「日本橋魚河岸」を移転させました。1926年(大正15年)のことだそうです。これにともない吉野家も築地に移転しました。ただ、移転にはいろいろなトラブルがあり、結局、正式には1935年(昭和10年)に移転、開業となっています。
 その後、東京大空襲によって店舗を焼失、この時も戦後、屋台で商売を再開したそうです。そして戦争から復員し、家業を手伝うようになった松田栄吉氏の息子である松田瑞穂(まつだ みずほ)氏は、かつて築地に出店していた人達と組合を作り、築地市場で店舗を再開しました。1947年(昭和22年)のこととされています。当時、吉野家の牛丼は鰻重と同じぐらいの価格で、高級な食事とされていたものの、店舗にはお客さんが行列をなしていたそうです。1952年(昭和27年)頃には24時間営業にも挑戦し、築地の名物店として知名度を高めていったそうです。
 松田瑞穂氏は牛丼屋の企業化を目指し、1958年(昭和33年)12月27日に資本金100万円で株式会社吉野家を設立しました。年商1億円という目標を持ち、「はやい、うまい」というモットーを掲げて工夫していったそうです。10坪足らず、15席のお店で、午前5時から午後1時までの8時間の営業で1000人の顧客に食べてもらえないと、年商1億円にはならないことから、7分おきに客が入れ替わっていく仕組みを作らなければならないと考えた結果、現在の吉野家につながる事業の変革がありました。
 それまでは牛丼以外のメニューも提供していたそうですが、お客さんは牛肉を食べに来ていると考え、牛丼だけに限定したそうです。また、それまで具材として入っていた焼き豆腐、筍をやめて、牛肉と玉ねぎだけのシンプルな「牛丼」に変えたそうです。このようにして生まれたのが、日本初の文字通りのファストフード、吉野家1号店でした。
 松田瑞穂氏は1965年(昭和40年)に年商1億円を達成すると、経営コンサルタントの渥美俊一氏の教えを受け、チェーン展開の構想を練り始めたそうです。そして1968年(昭和43年)12月、チェーン展開を開始すべく、2号店(新橋店)を新橋駅前に開店させました。その後は拡大の一途をたどります。1973年(昭和48年)にはフランチャイズ事業を開始し、1号店が小田原に開店しました。その後、1975年(昭和50年)にはアメリカで1号店(デンバー)をオープンさせるなど日本国内にとどまらず、海外展開も開始しました。1977年には100店舗、翌1978年には200店舗を達成するなど急成長を遂げていました。
 しかし1979年、急拡大に伴い、アメリカから輸入して確保できる牛肉の量が不足したため、牛肉にフリーズドライの牛肉をブレンドしました。さらに、それまでワインの効いた生タレの液体を店舗に運んでいたのを、価格が安い粉末のタレを使うようになり、劇的にまずくなったそうです。それにも関わらず、値段も上げたそうです。その結果、客離れが起き、資金繰りが悪化し、120億円の負債を抱え、1980年(昭和55年)7月15日に東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請しました。
 この頃、資金繰りに行き詰まった松田瑞穂氏は、東京の新橋駅前にある雑居ビル「ニュー新橋ビル」の地主だった新橋商事株式会社に緊急融資を頼んだそうです。当時の新橋商事株式会社のトミタ社長が松田瑞穂氏の戦友だったそうです。当時、吉野家はピーク時の売り上げが167億円あったのに、資本金は2400万円だったそうです。しかも、そのうち3分の1は新橋商事が持っていたそうです。一時的に新橋商事から6億円を融資してもらったそうですが、その時、担保として松田瑞穂氏が持っていた株式、3分の1を新橋商事に入れたそうです。結局、この時点で新橋商事は吉野家の3分の2の株を持ったことになります。さらに松田瑞穂氏の奥さんの親戚に株式の3分の1を持たせていて、それを返して欲しいと揉めていたそうです。松田瑞穂氏の経営感覚が疑われます。
 筆頭株主でもあり、吉野家の債権者、フランチャイジーでもあった新橋商事は、緊急融資を機に吉野家の経営権を握り、松田派の追い落としにかかったそうです。新橋商事の人達が乗り込んできて、「松田社長には一線を引いてもらう」と説明し、松田派とされる社員を降格、左遷して、自分達の好き勝手に事業を行おうとしたそうです。新橋商事の社長が新たに社長に就任し、債権者会議の席上、「これからは本物の牛肉を使いますから大丈夫です」と語ったと食品評論家の郡司篤孝氏が書いているそうです(安達生恒、大野和興、西沢江美子編著、「食をうばいかえす!」、有斐閣、1984年)。
 新橋商事からは、当時、常務取締役の井手さんという方が来て、吉野家の経営企画室長となり、経営企画室を軸に再建計画を作るということで、5人のメンバーを選んだそうです。この時、後に株式会社ゼンショーを興す小川賢太郎氏もいました。小川賢太郎氏は東京大学を1971年に中退後、横浜港の港湾荷役の仕事をしていましたが、経営を学ぶために中小企業診断士の資格を取得し、1978年に「世界から飢えと貧困をなくすための新たな闘いの第一歩」という決意で、「吉野家」に入社していました。店長、経理、人事を経て、1980年には経営企画室にいました。
 このチームが作成した再建計画で、国内の事業については銀行も認めてくれたものの、アメリカの事業については理解されなかったそうです。そこで小川氏、弁護士と会計士の3人で米国に1週間、調査に行き、再建計画を作ったものの、銀行を説得できず、結局、会社更生法の適用という流れになったそうです。
 当時、新橋商事は25店舗を運営していて、経営企画室の井手常務が、独自再建は不可能となったから新橋商事の25店を中心として、フランチャイズのオーナーを集めて独自に再建をやると言い出したそうです。そこで小川氏に、一緒に来てくれと説得し、小川氏は吉野家を離れ、新橋商事の外食部門である株式会社ニッショーの財務室長となり、こちらを軸にした再建計画を立てることになったそうです。しかし、小川氏は1980〜1982年の2年間、25店を中心に再建をやったものの、経営陣との方向性が合わず、退職し、自らゼンショーを立ち上げることになります。
 結局、新橋商事が作成した自主再建計画は銀行に承認されず、東海銀行が融資の打ち切りを決め、代わりとして株式会社ダイエーに支援を求めたものの、新橋商事は、この提案を断り、自主再建の道を模索したようです。しかし、不可能と判断したのか、吉野家乗っ取りを断念したらしく(この辺りの詳細の情報がありません)、結局、1980年(昭和55年)7月15日に東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請することになったようです。
 裁判所から選任された管財人である弁護士の増岡章三氏が新社長となり、代理人の今井健夫氏とともに再建に向けて動いて行ったそうです。増岡章三氏は不採算店舗を閉鎖し、肉やタレの味を改善、コストを徹底的に削減するなど、倒産原因の除去に地道に取り組んでいきました。あまりに絶望視されていたため、あきらめきった債権者が債務弁済を放置気味に猶予してくれたことも幸いだったようです。また、店頭に「裁判所の保全命令により営業継続。一層のご支援を」と開き直ったポスターを貼り、苦しい中であえて値下げキャンペーンを1週間実施したところ反響があり、客数が32%増加し、期間中だけで3億円近くを売り上げたそうです。さらに泥舟から逃げるように社員が続々と退職(550人から250人に減少)したため、人件費が大幅削減でき、業績改善につながったようです。
 このような状況があり、自力更生の目途が立った1983年(昭和58年)に更生計画が認可され、セゾングループが資本参加することとなり、資本金5億円で再スタートしました。社長は、セゾングループから派遣された杉本惇氏です。これを機に、松田瑞穂氏は完全に会社を離れることになったようです。
 1986年にはレストラン西武(1989年10月に株式会社西洋フードシステムズ、2007年4月に西洋フード・コンパスグループ株式会社に社名変更)傘下となり、1987年には当初計画より早く、更生債権100億円を完済し、復活となりました。1988年3月には、同社のグループ企業で、日本でダンキンドーナツを展開していた株式会社ディー・アンド・シーと合併し、社名を株式会社吉野家ディー・アンド・シーに変更しました。
 1992年には大株主の西武百貨店が経営危機となり、社長を送り込む余裕がなくなったのか、生え抜きの安部修仁氏が9月に社長に就任しました。安部修仁氏は、松田瑞穂氏から直接、指導をされていた人です。
 1998には、日本国内、全都道府県への出店が完了するとともに、不採算であったダンキンドーナツ事業から撤退しました。2000年には西武百貨店が伊藤忠フレッシュに吉野家株の売却を開始し、翌2001年には、伊藤忠フレッシュが西洋フードシステムズに次ぐ2位株主に浮上しました。2003年度には西洋フードシステムズに経営危機が発生し、吉野家株を売却したため、伊藤忠フレッシュが筆頭株主となりました。2004年には西洋フードシステムズは英国のコンパスグループ傘下となり、吉野家株を売却しました。これによって、セゾングループから外れました。
 2007年10月、吉野家ディー・アンド・シーは株式会社吉野家ホールディングスに社名を変更し、持株会社に改組しました。その結果、国内の牛丼事業は新たに設立した株式会社吉野家(吉野家ホールディングスの100%子会社)が担う体制になりました。2018年には国内外で2,000店舗を運営するまでに成長しています。







・吉野家 豊洲市場店
 住所:東京都江東区豊洲6-5-1 水産仲卸市場棟6街区 3F 11
 TEL:03-6633-0449
 営業時間:5:00〜13:00
 定休日:不定休(豊洲市場に準ずる)
 駐車場:無
 アクセス:東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)、市場前駅(しじょうまええき)から徒歩約7分
 カード:不可
 席数:15席
 オープン日:2018年10月11日