鰻の蒲焼きのお話

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更新日:
 2013年9月2日


◎うなぎの蒲焼き(2013年9月2日)
 日本人が鰻を食べ始めたのは、かなり古く、新石器時代の古墳で出土している多くの水産生物の骨の中に、鰻の骨も出土しているそうです。
 鰻が記録上に初めて登場するのは、「風土記」だそうです。「風土記」は、奈良時代、和銅6年(713年)に、元明天皇の詔によって、各国の物産、伝説などを収録した書物です。これにイルカ、ボラ、ナヨシ、コノシロ、ウナギ、ウグイ、ニベ、コイ、サケ、シラウオ、ワニ、フナ、シビ、フグ、ハゼ、クコ、イカ、エビ、ウニ、ウミマツ、ノリなどの水産生物が記されています。
 万葉集(759年頃)には、大伴家持が鰻を詠んだ唄が2首、乗っています。1つは、巻十六の3853で「石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫(石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とり食(め)せ)」という唄です。
 これは、大伴家持が吉田連老(字名が石麻呂)という人に贈った唄で、吉田という人は、身体がひどく痩せていて、いくら飲んでも食べても、飢えた人の様に少しも肥えなかったそうです。そこで、「石麻呂さん、あなたはかわいそうなくらいに痩せている。うなぎは夏痩せに良いと聞いているから、うなぎを取って食べなさい。」という意味で、少し、おせっかいな唄です。
 しかし、この歌から、当時、既に「鰻を食べると太って健康になる」ということが知られていたことが分かります。
 もう1種は、この唄の次で巻十六の3854、「痩々母生有者将在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河尓流勿(痩す痩すも 生けらばあらむを 将(はた)やはた 鰻を漁(と)ると 河に流れな)」と唄われています。
 これも、大伴家持が吉田連老という人に贈った歌とされています。この唄は、「いくら痩せていても、じっとしていれば生きていられるものを、もっと元気になってやろうと思って、鰻を取ろうと思って川に入って、水にながされるなよ」と言う意味です。
 最初の歌で、吉田のことを心配している風に「鰻を取って食べて、元気づけた方が良い」と言っておきながら、次の歌で「でも、鰻を取りに行って川に流されるなよ!」と言っているのですから、吉田のことを馬鹿にしている感じです。大伴家持や吉田連老という人が、どのような人であったかは分かりませんが、このようなくだらない唄が後世に残ってしまうのもどうかと思います。
 しかし、奈良時代には、鰻が食べられていたこと、健康に良いと考えられていたことが分かります。ただ、どのような調理法であったかは分かりません。
 「蒲焼」と言う言葉が、初めて文献に登場したのは室町時代に記された「鈴鹿家記」だそうです。応永6年(1399年)6月10日庚申、神事の朝振舞の条に「汁:スマシ、生鱸(スズキ)、コンブ。仁物(にもの):イリコ、コンニャク。鱠(なます):ハエ、シヤウガ、アサ瓜、クラゲ。引て刺身:鯉、イリ酒、ワサビ。鱣(うなぎ):かば焼。鮒スシ。カマボコ。香物。肴種種。臺物五ツ。」とあるそうです。
 しかし、当時の鰻の蒲焼は、現在の調理法とは異なり、ウナギを開かずに、そのまま串に刺して焼いていたようです。このウナギの丸焼きの様子が、蒲の穂に似ていることから「蒲焼(がまやき)」と名付けられたと言われています。この「がまやき」が、いつのまにか「かばやき」に変化して、現在に至ると言われています。
 その後、室町時代までは鰻をぶつ切りにしたり、小さめのウナギを丸のまま串を打って焼いて、塩で食べたり、酢みそ、辛子酢などで味付けして食べられていたようです。
 室町時代末期には、ぶつ切りにしたウナギに醤油や酒、山椒味噌などで味付けした「宇治丸」と呼ばれる料理が登場しました。この料理は、近江の宇治川のウナギが大変美味だった事が由来と言われています。
 ウナギの蒲焼が盛んになったのは江戸時代中期からで、江戸前と言えば、ウナギのことだったそうです。そもそも「江戸前」とは「城の前」、すなわち江戸城の東側から大川の西側の範囲をいい、海も含まれましたが、一般的には河川のことだったそうです。すなわち隅田川とか神田川とか、そうしたところが江戸前で、そこで捕れたものが唯一、江戸前の食べ物ということになります。そこで鰻屋の看板に書かれていたのが「江戸前」という言葉だったそうです。(「江戸前」と言う言葉が「江戸前寿司」という意味に変わっていったのは、明治時代の中頃だそうです。)元禄時代(1688年~1704年)には、江戸市中に鰻の辻売りや、鰻屋が現れていたそうです。
 1730年(享保15年)の「料理綱目調味抄」には、「鰻、樺焼の仕様いろいろあり。大は悪し、中なる川鰻よし、油多きはあしく、全体なる時、竹刀にて皮を下の方へひたとこわけ、油をとるべし、又、一度焼きて熱き酒を数遍かくれば、油とれ皮もやはらぎてよし」とあるそうです。
 また、天保年間の「世のすがた」には「うなぎ蒲焼は天明のはじめ(1782年)、上野山下佛店(ほとけだな)にて大和屋といへるもの初めて売り出す。其の頃は飯を此方より持参せしと聞く。近来はいづ方も飯をそへて売り、又茶碗もりなどといふもあり」と記載されているそうです。また、佛店には大和屋以外に、濱田屋という蒲焼屋もあったそうです。
 1700年代に江戸で鰻の蒲焼が広まったのには、千葉県銚子にある、現在のヒゲタ醤油の影響が大きいようです。1697年(元禄10年)、第五代当主、田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在の濃口醤油の醸造法を確立させました。
 醤油は主に関西から入って来ていたのですが、薄口で江戸の人の嗜好に合っていなかったようです。田中玄蕃が生み出した濃口醤油がが江戸の人の嗜好に合い、ウナギの蒲焼も大流行していったというのです。
 この大流行に伴い、ウナギの調理法も工夫がされていったようです。ウナギのさばき方として、関東と関西では、下記のような違いが言われています。関東では、①ウナギの背中側から開く「背開き」、②串打ち(短い竹串を使用)、③白焼き(そのまま焼く)、④白蒸し(セイロで蒸す)、⑤タレをつけて焼く、という工程ですが、一方の関西では、①ウナギの腹から開く「腹開き」、②串打ち(長い鉄串を編むように刺す)、③白焼き(そのまま焼く)、④タレをつけて焼く、と言う工程が一般的です。
 大きな違いは、(1)開き方、(2)串の形状、(3)蒸しの有無、という3点です。しかし、江戸時代の初期は、ウナギの焼き方は、全て「関西焼き」だったそうです。つまり、頭をつけたまま腹から割き、炭火で白焼きをし、タレをからめて仕上げる方法です。
 これが、現在、関東で主流な「背開き」に変わったのは、関西は商人の町に対し、関東は武士の町で武家が多かったため、「腹を割く」ことが「切腹」につながるため、「背開き」が広まったという説が一般的です。
 ところが、「背開き」に変わっていったのは、もっと単純な理由なようです。江戸では、ウナギの蒲焼が屋台で出されていたことと関係がありそうです。まず、(3)蒸し工程ですが、じか焼きの鰻は冷めると身が固くなるため、いったん白焼きした鰻を蒸して、余分な脂を落とし、柔らかく、ふっくらとした鰻が好まれるようになっていったといわれています。
 (2)の串ですが、関東では、蒸す工程が入ったことによって、蒸し器に入れられる程度の大きさで十分であることから、短い竹串が使われるようになっていったそうです。
 (1)の開き方ですが、背開きの方が簡単だということが、関東で広まった理由のようです。江戸前の鰻が大流行するにつれ、手間がかからない背開きが広まったというものです。手間がかかると、沢山のお客さんをさばききれないから、合理的な方法が採用されたということです。ちなみに、大阪でも関西風の焼き方をしているお店が、減ってきているという話もあるそうです。