すき焼き、鋤焼き、銚焼き

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更新日:
 2021年12月12日



◎すき焼き(2021年12月12日)
 「すき焼き」は「鋤焼き」、「銚焼き」などと表記される料理ですが、一般的には肉や野菜を浅い鉄鍋で焼いたり煮たりして調理する料理です。一般的には薄切りにした牛肉が用いられ、醤油、砂糖、酒などの調味料で作った割下でネギ、ハクサイ、シュンギク、シイタケ、焼き豆腐、シラタキ、麩などの具材と煮て、溶いた生の鶏卵をからめて食べることが多いです。
 牛肉以外の材料を使用した場合は、メインとなる具材(主に肉)によって「鳥すき(鶏すき)」、「豚すき」、「魚すき」、「蟹すき」、「うどんすき」などと呼ばれます。この場合は、メインの具材に合わせて味付けや調理方法が変わります。さらに、砂糖と醤油を用いた甘辛い味付けの料理を指して「すき焼き風」という呼称も用いられます。
 日本人が牛肉を食べるようになったのは明治時代になってからですから、「すき焼き」は明治時代に生まれた料理だと考えられますが、その起源となるような料理が2種類、あるそうです。その1つは「杉焼き」と呼ばれる料理だそうです。江戸時代前期、1643年(寛永20年)に刊行された「料理物語」という料理本には「杉やき」という料理が載っているそうです。「杉やき」は、鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて、味噌煮(砂糖は使用しなかった)にする料理だそうです。ただ、名称に関しては、「自分の好きなように焼いて食べる」ことから「すき焼き」になったという説もあり、何が正しいのか、わかりません。
 また、第9回朝鮮通信使(1719年)の製述官であった申維翰(しん・ゆはん)の著書「海游録」の付篇「日本聞見雑録」には、「日本料理では杉煮(すき焼き)をもって美食となす」と書かれているそうです。さらに、その料理は「魚肉と蔬菜など様々な食材を酒と醤で煮た料理」と記載され、朝鮮の「雑湯(チャプタン)のようなもの」と表現しているそうです。また、「何人かが杉の木の下で雨宿りした際に、杉の木で焚いた火の上で、各人の手持ちの食材をまとめて器で煮たものが美味だったことから名付けられた」と由来が書かれているそうです。「杉」は日本語で「スキ」と発音し、煮ることの訛言が「ヤキ」と言うため「スキヤキ」の俗称があるとし、漢字では「勝技冶岐」と書かれているそうです。
 もう1つは農機具の「鋤」から来る「鋤焼き」です。農夫が仕事で使う鋤の上で鳥の肉などの具材を焼いたことから、鋤やきと呼ばれるようになったとされています。1801年(享和元年)の料理書「料理早指南(りょうりはやしなん)」に「鋤やき」という料理が、「鋤のうへに右の鳥類をやく也、いろかはるほどにてしょくしてよし」と記載されているそうです。また、1804年(文化元年)の「料理談合集」や1829年(文政12年)の「鯨肉調味方」にも「鋤やき」という料理が「使い古した鋤を火にかざして鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱する一種の焼き料理」として記載されているそうです。
 牛肉を食べる文化は幕末の1859年(安政6年)に横浜が開港された後、外国人から伝わりました。1862年(文久2年)には、横浜入船町で居酒屋を営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が1軒の店を2つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したそうです。この後、明治になると牛鍋屋が流行し、牛肉食が文明開化の象徴となりました。1871年(明治4年)には仮名垣魯文が「安愚楽鍋」で「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と表現しています。東京の牛鍋屋は1875年(明治8年)には70軒あり、さらに1877年(明治10年)には550軒にまで増えていたそうです。
 一方、関西では、牛すき焼きの専門店として、1869年(明治2年)に神戸元町に「月下亭」が開店しています。「月下亭」では、牛肉を鉄鍋の上で焼き、油以外の液汁は加えず、肉がなくなってから他の具材を入れると言う調理方法だったそうです。
 物理学者で実業家でもあった大河内正敏は、江戸式の牛鍋は鍋に肉を重ならないように敷いて、肉の上にはタレが上らない程度に入れ、好みによってネギをそろりと肉の上に載せるだけで待つ料理法で、御狩場焼に近いと言っているそうです。
 コメディアンであった古川ロッパは、「牛鍋からすき焼へ」という著書の中で、東京の牛鍋は割下で牛肉を鍋で煮るもので、野菜はネギのみで、あとはしらたきがつくぐらいのもので、豆腐は入れず、食べる際に生卵を使わなかったと書いています。一方、大正時代に入って関西で初めて食べたすき焼きは、ザラメと味噌の煮汁にたくさんの青い菜っぱ、ネギ、湯葉、麩などを入れ、そこへ薄切りの牛肉を入れてまぜこぜにして煮込んだ料理で驚いたと書いています。さらに、1923年(大正12年)の関東大震災後に、東京に関西風すき焼きが進出し、そのうち東京の牛鍋屋もすき焼きの名称を使うようになったと書いています。当初は「すき焼き」の看板でも、関西風ではなく割下を使った牛鍋の店だったそうです。しかし、そのうちに関西風すき焼きと東京風牛鍋のアイノコ流が流行ってきたとも書かれています。
 これらのことを考慮すると、江戸時代には「杉焼き」、「鋤焼き」という料理があり、江戸末期に牛肉を食べる文化が入ってきて、これらの調理方法と合わさって、関西、関東などで、それぞれの調理方法で料理ができたのではないでしょうか。すき焼きという料理は関西で、江戸では当初、牛鍋が主流だったものの、関西式の「すき焼き」が入ってくると、合わさって新しい「すき焼き」になったのではないでしょうか。このため、「正しい」すき焼きというものはなく、日本国内、各地方で様々な「すき焼き」があると考えられます。使用する野菜も、地方や家庭によってはモヤシを入れたりジャガイモを入れたりするようです。
 東京、横浜、京都、大阪、神戸のすき焼きに共通することは、最初に火にかけたすき焼き鍋に牛脂を引いて牛肉を焼き、味をつけて食べます。その後、野菜や豆腐などの具材を加えて煮ていくということです。違いは、東京、横浜の味付けは割下を用い、京都では砂糖(主にザラメ)と割下を用い、大阪、神戸では砂糖、醤油、出汁を用いる点です。現在では、肉を焼く時の味付けが「ざらめ(砂糖)と醤油」の場合には関西風すき焼きと言われ、割り下を使う場合は関東風すき焼き、と言われるようです。
 すき焼きの具を、生の鶏卵をかき混ぜた溶き卵につけて食べるようになった由来は、熱さを冷ますことや、濃い味付けを緩和するなど、諸説あるそうです。初期の味噌味の牛鍋には生卵が使用されなかったことから、関西のすき焼きから広まった風習ではないかという説もあるようです。一方、鍋料理に生卵を用いるのは江戸時代以前から存在する軍鶏鍋などの食べ方だそうです。この食べ方が、すき焼きに応用されたという説もあり、何が正しいかは分からないようです。