ウスターソース類

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更新日:
 2018年12月3日


◎ウスターソース類(2018年9月23日)Worcestershire sauce
 ウスターソースというと、中濃ソース、トンカツソースなどと一緒に販売されているソースの1種類で、「薄めのシャバシャバなソース」のことだと思われがちですが、実際は、これらのソース全般を指して「ウスターソース類」と呼ぶそうです。この規格は「ウスターソース、中濃ソース及び濃厚ソースに適用する。」とされており、「ウスターソース類」は、日本農林規格(JAS規格)で以下のように定義されています。(最終改正:2015年5月28日、農林水産省告示第1387号)

 次に掲げるものであつて、茶色又は茶黒色をした液体調味料をいう。
1 野菜若しくは果実の搾汁、煮出汁、ピューレー又はこれらを濃縮したものに砂糖類(砂糖、糖蜜及び糖類をいう。以下同じ。)、食酢、食塩及び香辛料を加えて調製したもの
2 1にでん粉、調味料等を加えて調製したもの

 ウスターソース類はウスターソース、中濃ソース、濃厚ソースの3種類があり、主に粘度によって定義されています。また、それぞれに特級と標準がありますので、ウスターソース類は合計で6種類ということになります。それぞれの規格を下表にまとめます。

粘度 無塩可溶性固形分 野菜及び果実の含有率 食塩分
ウスターソース 標準 0.2Pa・s未満 21%以上 11%以下
特級 0.2Pa・s未満 26%以上 10%以上 11%以下
中濃ソース 標準 0.2Pa・s以上2.0Pa・s未満 23%以上 10%以下
特級 0.2Pa・s以上2.0Pa・s未満 28%以上 15%以上 10%以下
濃厚ソース 標準 2.0Pa・s以上 23%以上 9%以下
特級 2.0Pa・s以上 28%以上 20%以上 9%以下

 とんかつソース、お好み焼きソースなどは濃厚ソースの中で、用途に応じて味付け、成分などを変えた「商品名」ということです。

 ウスターソースというのが「薄めのシャバシャバなソース」ということではなく、中濃、トンカツなどのソースの大本であるようなくくりになっているのには理由があります。
 このウスターソースが日本に初めて伝来したのは幕末期、鎖国を開港した直後というのが定説のようです。ただ、実際には江戸時代の中期、長崎の出島における日蘭貿易の最中にも伝来しており、長崎ではオランダ人が色々なソースを作って食べていたと考えられます。しかし、その食文化を当時の日本人が取り入れることはできず、日本人に広まっていったのは明治時代の初期まで待たなくてはならなかったと考えられます。
 明治時代初期は、まさに文明開化の時代であり、西洋化がどんどん進む一方、食生活にも変化がみられ、それまで魚介類に頼っていた動物性蛋白を牛肉や豚肉などの肉類、チーズやバターやハムといった加工食品からも摂取するようになった時期です。様々な西洋料理(洋食)が輸入されるとともに、様々なソースが輸入されたと考えられます。
 当時、ウスターソースは瓶に詰められて輸入されていたようですが、酸味や香辛料の味が強すぎ、日本人の味覚にはあまり馴染めなかったようです。このため日本人の味覚に合うように改良、工夫された日本風のウスターソースを作る会社が生まれていきました。
 ソースの製造に最初に着目したのは、ヤマサ醤油(株)の七代目、浜口儀兵衛氏で、1884年(明治17年)、米国遊学中にウスターソースが瓶詰で売られているのに注目し、米国から会社に対して醤油を原料としたソースの製造を奨めてきたため、八代目、浜口儀兵衛氏が研究を重ね、新しいソースを製造、販売しはじめたそうです。このソースをサンフランシスコに送り、三角形のガラス瓶に詰めて、「ミカドソース」の商標で販売する一方、国内向けには「新味醤油」の商標で売り出したそうですが、一般の人々に味が馴染まれないまま、製造販売後1年程で製造は中止されたそうです。
 日本では1885年(明治18年)に特許制度が公布されましたが、同社はこのソースの製造特許を1885年(明治18年)9月28日に出願し、1ヵ月後の10月30日に「製造特許第53号」として成立しています。以下に示すのがその全文で、使用法、製造法などの記述があり、当時の食文化の一端を垣間見ることができます。
 「名称:新味醤油洋食和食共二調和シテ用ユ可キ極テ好味ナル新規有益ノ新味醤油ヲ発明セリ之ヲ左ニ明解ス。
 此ノ新味醤油ハ日本醤油、西洋酢、蕃椒、胡椒、丁字、蒜、胡すい子ノ七品目ヨリ成ル乃チ其成分ノ割合ヲ掲クルコト左ノ如シ
 日本醤油1斗、西洋酢5斗、蕃椒1500匁、胡椒500匁、丁字400匁、蒜250匁、胡すい子150匁
 此ノ醤油ヲ製スルニハ日本醤油二西洋酢、蕃椒、胡椒、蒜、胡すい子ヲ混和シテ大約2月間放置シ而シテ布袋デ以テ濾過スルモノトス。此ノ醤油ノ用法ハ西洋ノ「テーブルソース」ニ異ナラス牛肉或ハ魚肉等調理品ニ和スルトキハ鹹味ヲ増シ一種ノ芳香ヲ放チ食物ヲシテ一層美味ナラシムルノ効アリ
 此ノ発明ノ専売特許ヲ請求スル区域ハ上文記載ノ如ク日本醤油、西洋酢、蕃椒、胡椒、丁字、蒜、胡すい子ヲ以テ製造スル新味醤油是ナリ」
 しかしながら洋食の普及はめざましく、日本人の味覚に合ったソースの国産化の努力が続けられ、ミカドソースの製造中止後7年経って、関西地方で製造され始めました。1894年(明治27年)には越後屋(布谷徳太郎)が「三ツ矢ソース」を、1896年(明治29年)には山城屋(木村幸次郎、現、イカリソース)が「錨印ソース」を、1899年(明治32年)には野村洋食料品製造所(野村専治)が「白玉ソース」を、関東地区では1900年(明治33年)に伊藤胡蝶園(長谷部仲彦)が「矢車ソース」を、1905年(明治38年)には三澤屋商店(小島仲三郎、現、ブルドックソース)が「犬印ソース」を、1906年(明治39年)には大町信が東京都新宿区(当時牛込区)の新小川町でソース工場を開業、高品質のウスターソース「MTソース」を製造、販売、1912年(明治45年)には荒井長次郎(後のチキンソース(株)、その後、倒産したらしい)が「スワンソース」を発売しています。さらに中部地区では1908年(明治41年)には愛知トマトソース製造(蟹江一太郎、現、カゴメ)が「カゴメソース」を発売するなど、明治後半には各地で多種多様なウスターソースが製造、販売され、ウスターソース市場が大きくなっていました。この結果、日本国中にウスターソースが普及し、「ソース」と言えば「ウスターソース」という状況になっていったものと考えられます。
 大正時代には、とんかつやフライが庶民の人気を集める一方、第一次世界大戦の勃発によって始まった好景気によってソースの製造業者が増加していったそうです。この頃から醤油メーカーが調味料としてのソースに着目し始め、大都市を中心にソースの製造に着手し、原料の潤沢さとメーカーの競合とによって、生産量も増加し、品質も著しく向上していったようです。
 この頃、ソース業界に2つの流れが生まれたそうです。1つは輸入品に近いものを作ろうとする動きで、もう1つは醤油に馴染んできた日本人の味覚、嗜好に合うものを作ろうとする流れです。さらに第一次世界大戦景気の反動としての不況時代に入った昭和初期には別な方向として、できるだけ良い原料を使って高級品を作ろうとする企業と、安く作って値段で競争していこうとする低級品の競合が発生したそうです。この動きは戦時経済が進み、やがて統制経済に至るまで続くこととなっていきました。
 全国各地にソースメーカーが誕生し、製造を始めると、醤油、味噌に地域的特性があるようにソースにも地域性が生まれていったようです。例えば、関東は甘みの強いもの、関西は酸味の強いもの、その他に辛味の強いものといったような傾向が生じ、現在でも、このような地域ごとの傾向が継承されているそうです。
 昭和10年代以降の戦時体勢下では、各種原材料の高騰や配給統制が強化されるなどして品質の低下とともに生産量も減少しました。特に1944年(昭和19年)2月からはソース業界への砂糖の配給はゼロになり、ソースの品質もそれまでの規格を守ることは不可能となり、1944年(昭和19年)5月に全国ソース工業統制組合は農商務省に対し「無糖ソース」製造の認可申請を行いました。
 終戦後、敗戦国の現実として戦時中からの物資不足の状態が続いており、砂糖、食塩、食酢、香辛料、野菜等の原料入手難に加えて、燃料、瓶等の材料欠乏に直面していました。このような時に、昭和21年7月、砂糖の代替品としてサッカリンとズルチンの使用が許可され、原料としての砂糖が不足する中、1946年(昭和19年)の無糖ソース以来、甘味のあるソースが製造されるようになり、甘味に飢えていた消費者の嗜好とマッチして、人工甘味料使用品が全盛期を迎え、1956年(昭和31年)のチクロ使用許可により、さらに味の良いソースが作られることとなり、チクロ使用ソースが全盛期を迎えたそうです。
 一方、ソースの糖源不足は、全く新しいソースも生み出しました。1945年(昭和20年)の終戦時までソースは現在のウスターソースのみが製造されていましたが、戦後のソースの特色は、戦時中の甘味不足の反動からか甘いものが好まれるようになり、次第に甘味が強く、酸味が弱く辛味の少ないものとなっていったそうです。また、従来の野菜類の他に甘味のあるりんご等果実類を使用して豚カツソース、フルーツソースと呼ばれる粘度の濃い日本独特の濃厚ソースが登場しました。さらに昭和30年代後半には、ウスターソースと濃厚ソースの中間的な粘度の中濃ソースが発売され、その口当たりの良さから東日本方面には急速に普及していきました。
 1968年(昭和43年)のズルチン、1969年(昭和44年)秋のチクロと相次いだ甘味料の使用禁止はソース業界にソースの高品質化を促すきっかけとなりました。全糖、醸造酢を使用し、食品添加物もできるだけ使用しない純正食品化を目指す品質競争の時代に突入していくことになったのです。チクロの使用禁止後、業界自主規格を設定し、業界ぐるみでソースの全糖化とともに品質向上に取り組んでいきました。さらに、この自主規格を基準にしてウスターソース類の日本農林規格(JAS)の制定の動きがあり、1974年(昭和49年)6月に「ウスターソース類の日本農林規格」が告示されました。
 その後、ソースの多様化、消費者の嗜好の変化に対応すべく規格基準の見直しが行われ、1996年(平成8年)10月に「ウスターソース類の日本農林規格」が全面改正されましたが、この時の主要な改正点は下記です。
1. 消費者の嗜好の変化により低酸度のソースが多くなってきたことから、規格から「酸度」の基準を削除したこと。(広島地方を中心とした低酸度のお好みソース(製品の性状からみると濃厚ソースとなる。)が伸長していることから、これらも規格内に取り入れた。)
2. 食品添加物も含めて、使用原材料がポジリスト化されたこと。

 現在、ウスターソース類の製造業者は推定130社程度のようですが、首都圏(東京、埼玉)、中部(愛知)、近畿(京都、大阪、兵庫)、広島、福岡など、比較的大都市及びその周辺に集中しているようです。
 ウスターソース類の生産量は、1997年度(平成9年)実績で約16万klとなっており、この数年は微増で推移しているそうです。ソースといえば「ウスターソース」だった時代と異なり、近年の食生活の多様化、ライフスタイルの変化に伴って新しいソースや調味料が開発され、ウスターソース類の消費量が減ってきているものと考えられます。ちなみにウスターソース類のうち、ウスターソースの消費量の減少が著しく、お好みソース、焼そばソース等の専用ソースが伸びた結果、全体として微増で推移しているそうです。