ウスターソース

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更新日:
 2018年12月3日


◎ウスターソース(2018年9月23日)Worcestershire sauce
 ウスターソースは、英語でウスターシャーソース(Worcestershire sauce)、ウスターソース(Worcester sauce)と呼ばれる野菜や果実などのジュース、ピューレなどに食塩、砂糖、酢、香辛料を加えて調整、熟成させた液体調味料(ソース)のことです。中濃ソース、トンカツソースなどと一緒に販売されているソースの1種類で、「薄めのシャバシャバなソース」のことだと思われがちですが、実際は、これらのソース全般を指して「ウスターソース類」と呼ぶそうです。
 日本語で単に「ソース」と言った場合は一般に「ウスターソース類」全般のことを指します。「ウスターソース類」とは「粘度が薄いシャバシャバなウスターソース」のことだけでなく、少し粘度がある「中濃ソース」、粘度が高くドロッとした「濃厚ソース」を含めたソースのことです。ちなみに「トンカツソース」、「お好み焼きソース」などは商品名であり、日本農林規格(JAS規格)では、これらは「濃厚ソース」に分類されます。
 「ウスターソース」はイギリスのウスターシャー州の州都、ウスター市(Worcester)で生まれたという説が一般的です。19世紀の初め、ウスター市に住んでいた主婦が余った野菜や果物の切れはしを有効に使おうと考え、胡椒や唐辛子などの香辛料を振り掛け、腐敗しないように食塩、食酢を加えて壷に入れて貯蔵しておいたそうです。何ヵ月かして壷の蓋を取ってみると、貯蔵物が自然溶解して発酵していましたが、臭いをかぐと食欲をそそる芳香を放っていたそうです。そこで思いきって味見をしたところ美味しいと感じ、この発酵液を調味料として使ったところ味が美味しくなったそうです。これを自慢の調味料として吹聴して回った結果、真似をする人が増え、さらに地元の企業が商品化し、イギリス全土で市販されるようになり、世の中に広まっていったそうです。
 一方、ウスターシャーに現在でも当時からウスターソースを製造、販売している会社が残っているリー・アンド・ペリンス社(LEA&PERRINS)が生みの親という説もあるようです。リー・アンド・ペリンス社は、もともと薬剤、食糧や調味料などを販売していた薬局でした。そこに第2代サンディーズ男爵(2nd Baron Sandys)であるアーサー・ヒル(Arthur Hill)がインドのベンガル州(Bengal、インドの北東部。現在はインドとバングラデシュに分かれている地域。)に総督として赴任し、任務を終えて帰国する際、現地のソースの調合法を持ち帰ったそうです。このレシピをもとにウスター市のブロード・ストリート(Broad Street)でジョン・リー(John Wheeley Lea)とウイリアム・ペリンス(William Henry Perrins)という2人の化学者が、このソースを試作することに成功し、それまでにない新しいタイプのソースを作り上げたそうです。これが好評を博したので「ウスターソース」の名称で製造、販売を始めたとのことです。リー・アンド・ペリンス社のWeb Siteでは、1837年に世界で初めてウスターソースを製造、販売している最古のソース会社と書かれています。
 私としては偶然、できたとするよりもインドからレシピを持ち帰り、イギリスで独自に改良を加えたソースという方が信ぴょう性があると思います。いずれにしてもウスター市(Worcester)で生まれたことからウスターソース(Worcester sauce)とかウスターシャーソース(Worcestershire sauce)と呼ばれるようになったそうです。
 このウスターソースが日本に初めて伝来したのは幕末期、鎖国を開港した直後というのが定説のようです。ただ、実際には江戸時代の中期、長崎の出島における日蘭貿易の最中にも伝来しており、長崎ではオランダ人が色々なソースを作って食べていたと考えられます。しかし、その食文化を当時の日本人が取り入れることはできず、日本人に広まっていったのは明治時代の初期まで待たなくてはならなかったと考えられます。
 明治時代初期は、まさに文明開化の時代であり、西洋化がどんどん進む一方、食生活にも変化がみられ、それまで魚介類に頼っていた動物性蛋白を牛肉や豚肉などの肉類、チーズやバターやハムといった加工食品からも摂取するようになった時期です。様々な西洋料理(洋食)が輸入されるとともに、様々なソースが輸入されたと考えられます。
 1872年(明治5年)刊行の「西洋料理指南」という本には「ウスターソース」のことが「醤油ナリ。此品ハ我国二有セス我醤油ヨリ上品トス。舶来品ヲ用ユベシ」と記載されているそうです。海外の国でウスターソースは、スープやシチューなどに数滴落として風味をつけたり、調理の際の味付けに使うものだそうですが、日本には醤油を副食物などに掛けたり、漬けたりして食べる習慣があったことから、ウスターソースも醤油と同じような感覚で使ったと考えられます。
 当時、ウスターソースは瓶に詰められて輸入されていたようですが、酸味や香辛料の味が強すぎ、日本人の味覚にはあまり馴染めなかったようです。このため日本人の味覚に合うように改良、工夫された日本風のウスターソースを作る会社が生まれていきました。
 ソースの製造に最初に着目したのは、ヤマサ醤油(株)の七代目、浜口儀兵衛氏で、1884年(明治17年)、米国遊学中にウスターソースが瓶詰で売られているのに注目し、米国から会社に対して醤油を原料としたソースの製造を奨めてきたため、八代目、浜口儀兵衛氏が研究を重ね、新しいソースを製造、販売しはじめたそうです。このソースをサンフランシスコに送り、三角形のガラス瓶に詰めて、「ミカドソース」の商標で販売する一方、国内向けには「新味醤油」の商標で売り出したそうですが、一般の人々に味が馴染まれないまま、製造販売後1年程で製造は中止されたそうです。
 日本では1885年(明治18年)に特許制度が公布されましたが、同社はこのソースの製造特許を1885年(明治18年)9月28日に出願し、1ヵ月後の10月30日に「製造特許第53号」として成立しています。以下に示すのがその全文で、使用法、製造法などの記述があり、当時の食文化の一端を垣間見ることができます。
 「名称:新味醤油洋食和食共二調和シテ用ユ可キ極テ好味ナル新規有益ノ新味醤油ヲ発明セリ之ヲ左ニ明解ス。
 此ノ新味醤油ハ日本醤油、西洋酢、蕃椒、胡椒、丁字、蒜、胡すい子ノ七品目ヨリ成ル乃チ其成分ノ割合ヲ掲クルコト左ノ如シ
 日本醤油1斗、西洋酢5斗、蕃椒1500匁、胡椒500匁、丁字400匁、蒜250匁、胡すい子150匁
 此ノ醤油ヲ製スルニハ日本醤油二西洋酢、蕃椒、胡椒、蒜、胡すい子ヲ混和シテ大約2月間放置シ而シテ布袋デ以テ濾過スルモノトス。此ノ醤油ノ用法ハ西洋ノ「テーブルソース」ニ異ナラス牛肉或ハ魚肉等調理品ニ和スルトキハ鹹味ヲ増シ一種ノ芳香ヲ放チ食物ヲシテ一層美味ナラシムルノ効アリ
 此ノ発明ノ専売特許ヲ請求スル区域ハ上文記載ノ如ク日本醤油、西洋酢、蕃椒、胡椒、丁字、蒜、胡すい子ヲ以テ製造スル新味醤油是ナリ」
 しかしながら洋食の普及はめざましく、日本人の味覚に合ったソースの国産化の努力が続けられ、ミカドソースの製造中止後7年経って、関西地方で製造され始めました。1894年(明治27年)には越後屋(布谷徳太郎)が「三ツ矢ソース」を、1896年(明治29年)には山城屋(木村幸次郎、現、イカリソース)が「錨印ソース」を、1899年(明治32年)には野村洋食料品製造所(野村専治)が「白玉ソース」を、関東地区では1900年(明治33年)に伊藤胡蝶園(長谷部仲彦)が「矢車ソース」を、1905年(明治38年)には三澤屋商店(小島仲三郎、現、ブルドックソース)が「犬印ソース」を、1906年(明治39年)には大町信が東京都新宿区(当時牛込区)の新小川町でソース工場を開業、高品質のウスターソース「MTソース」を製造、販売、1912年(明治45年)には荒井長次郎(後のチキンソース(株)、その後、倒産したらしい)が「スワンソース」を発売しています。さらに中部地区では1908年(明治41年)には愛知トマトソース製造(蟹江一太郎、現、カゴメ)が「カゴメソース」を発売するなど、明治後半には各地で多種多様なウスターソースが製造、販売され、ウスターソース市場が大きくなっていました。この結果、日本国中にウスターソースが普及し、「ソース」と言えば「ウスターソース」という状況になり、ソースの分類として「ウスターソース類」というくくりになったと考えられます。
 食文化が豊かな日本では、「ソース」と言えば、様々な種類があり、「ウスターソース」も、その中の1つとしてしか認識されていないと思います。しかし、外国から入ってきた最初のソースで歴史があり、日本の食文化の発展に大きく貢献したソースであるのですね。