おきゅうと

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更新日:
 2017年9月3日


◎おきゅうと(2017年9月2日)
 「おきゅうと」は福岡県福岡市を中心に食べられている海藻の加工食品です。福岡出身の人にとっては極当たり前の食べ物で、子供の頃から良く食べていたとのことです。博多の料理屋さんで食事をした時、突き出しとして出されたのですが、初めて見たので、お店の人に「これは何ですか?」と聞いたところ、「おきゅうとです。」と言われたのですが、正式名称が「おきゅうと」なのか、「おきゅうとう」なのか、また、これが一体、何なのか、全く分かりませんでした。ただ、時代が変わったので、その場でスマホで調べたら「おきゅうと」という食べ物だということが分かりました。「おきゅうと」は「おきうと」、「お救人」、「浮太」、「沖独活」などとも表記されるそうです。
 見た目は薄い板状のコンニャクのようですが、箸でつまんでみるとコンニャクとは異なり、とても柔らかく、食べてみるとトコロテンのような感じで海草のような風味がありました。
 おきゅうとは、日本海側だけで採れる海藻「エゴノリ(えご草、おきゅうと草、博多では「真草」とも呼ばれる)」と「イギス(沖天、博多では「ケボ」とも呼ばれる)」という固める作用を持つ海藻をブレンドしたものが基本的な材料だそうです。これらをそれぞれ水洗いして天日干しし、エゴノリとイギスを7:3~6:4の割合で混ぜ、よく叩きます。その後、酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し、常温で固まらせたら完成です。
 食べ方は、5mmから1cmの短冊状に切り、鰹節の上にオロシ生姜や刻みネギを乗せ、生醤油で食べるか、または芥子醤油、ポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的だそうです。博多では、朝御飯のおかずとしてよく食べられているそうです。成分は96.5%が水分で、タンパク質が0.4%、炭水化物が3%、灰分が0.2%とのことで、栄養価はそれほど高くないようですが、独特の食感が人気のようです。
 「おきゅうと」の歴史は古く、記録によれば、江戸時代に初めて箱崎(福岡県福岡市)で作られたそうです。江戸時代の本草学者・儒学者である貝原益軒が編纂した「筑前国続風土記」には「うけうとと云物、此類(いぎす)なり。糸紫なり。是亦毒あり」と記載されているそうです。筑前国風土記は1688年(元禄元年)から編纂を始め、1709年(宝永6年)に完成した書物です。
 また、1738年(元文3年)に筑前の黒田藩が幕府に差し上げた「筑前国産物帳」という書物にも「うけうと」という名前で「海中ニ生ズ、枝多ク節々連生ス。淡紫色。久シク煮レバ化シ膠凍ト成ル。味佳ナラズ」と記載されているそうです。
 この「おきゅうと」の語源には諸説あり、明確ではないようです。エゴノリがウドのように早く育つということから「沖のウド」→「沖独活(おきウド)」→「おきゅうと」と転化したという説が一般的なようです。
 このほかにも、上述した筑前続風土記の中に「此外、海藻甚多し。悉く記し難し。凡凶年に貧民海草を取て食とする事、野草より多し。」という記載があることから、昔、飢饉の時に非常食として食べられ、多くの人を救ったことから「救人(きゅうと)」と呼ばれたという説もあるそうです。
 さらに沖の漁師(あるいは、沖から来た人)が作り方を伝えたということから「沖人(おきひと)」→「おきゅうと」となったという説があるそうです。
 江戸時代から明治、大正と時代が変わると、箱崎では海苔の養殖とともにおきゅうとを作って売る家が増え、木箱に並べて行商をしていたそうです。そのため、1本からでも売りやすいように、丸めていたそうです。現在でも博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られており、当時の名残だそうです。
 また、第二次世界大戦前、博多の町では明け方より、他の地方の「納豆売り」や「しじみ売り」のように「おきゅうと売り」がリヤカーを引いて売り歩いていたそうです。昭和の時代、博多では、おきゅうとは朝ごはんの定番だったそうです。
 一昔前までは、箱崎には30軒程のおきゅうと製造店があったそうですが、1990年代から博多湾で原材料の良いエゴ草が獲れなくなり、石川県や新潟県など、北陸産のエゴ草を使うようになっていったそうです。また、エゴ草の収穫量の減少、価格高騰により、おきゅうと製造店も減っていったそうです。おきゅうと専門の製造卸は福岡市内を中心に1997年頃には約10店ほどになってしまったそうです。