ジンギスカン

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更新日:
 2013年9月2日


◎ジンギスカン(北海道)(2013年9月2日)
 ジンギスカン(成吉思汗)は、マトン(成羊肉)やラム(仔羊肉)を用いた羊肉の焼肉料理です。北海道の郷土料理であり、北海道遺産の1つです。
 ジンギスカンは、中心が凸型になっているジンギスカン鍋を使って調理するのが特徴です。羊肉と野菜を一緒に焼いて、羊肉から出る肉汁で野菜を調理しながら食べる料理です。肉は、調味液に漬け込んだ「味付け肉」、冷蔵(チルド)肉の「生肉」、冷凍肉の「ロール肉」が使われています。ラム肉は味付け、生、ともに食べられていますがが、マトンは主に味付け肉として食べられています。
 味付け肉の発祥は、北海道滝川市に本社を置く(株)マツオの「松尾ジンギスカン」だそうです。松尾ジンギスカンは玉ねぎ、リンゴなどを使った天然果汁100%で、保存料や合成着色料を一切、使っていない秘伝のタレに漬け込んだ味付きジンギスカンです。
 現在では、様々なメーカーで製造されており、個人精肉店や焼肉店などでも独自に製造、販売されています。調味液は醤油ベースが主で、他に味噌ベース、塩ベースなどがあります。様々な香味野菜、果物で作られたタレに肉が漬け込まれます。ラム肉、マトン肉のどちらでも使用されていますが、主にマトン肉で利用されることが多いようです。マトン肉は、強い独特の匂いがあるため、臭み消しの目的もあるようです。
 北海道では、道北(旭川市などの上川支庁地域や、滝川市などの空知支庁中北部)では「味付け」、道央(札幌市)、道南海岸部(函館市、室蘭市)、道東海岸部(釧路市)では「生肉」が主流だったそうです。観光名所となっているビール園の主流も生ラムのジンギスカンです。ただし、近年では双方の地域で、どちらの食べ方も浸透が進んでおり、違和感無く、受け入れられているようです。
 北海道の他にも、岩手県の県北沿岸部や遠野市、山形県蔵王、長野県飯伊地域、同県長野市信州新町、岡山県真庭市の蒜山高原、福島県石川郡平田村など、局地的に常食されている地域があります。また、千葉県のマザー牧場や神戸市の六甲山ホテルなどでは、創業以来、ジンギスカンが名物メニューとなっています。
 ジンギスカンは、元々、羊毛をとるために飼育されていた羊の肉の活用法として考えだされた料理だったようです。1918年(大正7年)に軍隊、警察、鉄道員用制服の素材となる羊毛の自給を目指す「緬羊百万頭計画」という計画が立案されました。その早期実現のために、羊毛のみならず羊肉も消費させることで、農家の収入増加と、飼育頭数増加を目指していました。しかしながら、日本では古来より、羊肉を食べる習慣がなく、産業廃棄物として畑の肥料として使われるような状態だったようです。このような状況下、羊肉を消費するために、美味しく料理する方法が研究されていたようです。羊肉料理を開発するため、農商務省が東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)に料理研究を委託したこともあったようです。
 このジンギスカンという料理の誕生には、東京、赤坂にあった松井商店という精肉店が大きな役割を果たしたようです。松井商店は1890年(明治23年)に松井平五郎氏が創業し、赤坂田町6丁目10番地で精肉の販売を始めました。これは、現在の東京メトロ銀座線の溜池山王駅11番出口の前辺りだったそうです。
 松井商店は1906年(明治39年)からは羊肉も扱うようになったようです。そして、1911年(明治44年)に宮内省の御用達となり、宮内省はじめ皇族方に精肉を販売していたそうです。1924年(大正13年)には、農商務省から国内唯一の羊肉販売商に指定され、生きたままでも枝肉になったものでも、全国から出荷される緬羊肉を買い付け、卸売りだけでなく普及宣伝のために小売りもしたそうです。1938年(昭和13年)には、東京日日新聞に『「緬羊肉」、「マトン愛食時代来る」』という広告を出しているそうです。
 そして松井商店は、自分で茨城県に緬羊牧場を持ち、その肉も使って羊肉料理の研究開発に尽力したそうです。東京、高円寺(現在の杉並区)に約300坪もあった庭の広い自分の別荘を使って、農商務省の畜産関係者などを呼び、羊肉料理、ジンギスカンなどの試食場として提供していたそうです。
 その後、陸軍の主計将校など、軍人も出入りするようになったため、いつまでも羊肉料理愛好者クラブみたいな形では良くないので、正式な商売にするべきだと勧められたそうです。そこで二代目の初太郎氏は別荘を改装し、1936年(昭和11年)に「成吉思荘(じんぎすそう)」というジンギスカン料理を主とする支那料理店を開きました。このお店が、日本で最初のジンギスカン料理専門店だと言われています。(成吉思荘は1994年(平成6年)に閉店し、現存していません。)この時、ジンギスカン用に中央部が盛り上がった鍋を開発し、実用新案登録したそうです。
 成吉思荘のパンフレットには「蒙古の英雄“成吉思汗”が欧州を席捲したとき、陣中で兜のうえに羊肉をのせ、これを焼いて食べたのが“じんぎすかん料理”の起こりだそうですが、蒙古では最近まで羊肉を水たきにして、塩味を加える程度の簡単なものであったようです。蒙古料理本来の、さらりとした味をもとに、中国風の濃味を加えたもので、北京城外の正陽楼の、有名な料理「烤羊肉(コウヤンロウ)」をもとにしたものです。戸外に机をおき、そのうえに火鉢と鉄架をのせて、特製のたれをつけて羊肉を焼きながら立食する「烤羊肉」は、豪快で東洋的なムードがあふれています。“成吉思莊”の「じんぎすかん料理」は、こうした持味を生かしながらたれと薬味に改良を加え、日本人の味覚に合うようにつくり上げたものです。」と記載されていたそうです。
 北海道中央農業試験場の高石啓一氏によると、1931年(昭和6年)の文献に「網焼きの羊肉料理」として「成吉思汗料理」が紹介されているそうです。1918年(大正7年)の「緬羊百万頭計画」のため、大正から昭和にかけて日本人の食生活に合った羊肉料理の研究がおこなわれ、昭和6年頃には、すでにジンギスカン料理が完成していたものと思われます。
 ジンギスカンという料理の名前の由来については、東北帝国大学農科大学(北海道大学の前身)出身で、満洲国建国に深くかかわった駒井徳三が、1912年(大正元年)から9年間の南満州鉄道社員時代に命名したものであるとする説があるそうです。この説は、駒井徳三の娘の満洲野(ますの)が1963年(昭和38年)に発表したエッセイ「父とジンギスカン鍋」に記されています。
 ジンギスカンを調理する鍋は主に鉄製で、中央部分が兜のように盛り上がった独特の形状をしています。表面には溝が刻まれていて、盛り上がった中央部で羊肉を焼いた時、羊肉から染み出した肉汁が溝に沿って下に流れ落ち、下の外周部で野菜を焼いて味付けすることを意図した設計だそうです。
 この専用鍋は、上記のような鉄製やアルミ製で穴がないものと、スリット状に穴が開けられているものがあります。 穴がない鍋は主に味付け肉に使われており、タレがこぼれ落ちません。一方、穴が開いている鍋は、主に七輪や炭火で生肉を焼く時に用いられ、肉の余分な脂を落とすことを目的としているようです。
 上述しましたが、1936年(昭和11年)に「成吉思荘」を開店した松井初太郎氏が、中央部が盛り上がったかなり大きな鍋と炭で焼くコンロを考案し、実用新案登録しています。その後、この形の鍋は、松井商店の3代目である松井統治氏がガス焜炉用に改良しました。それは、頂点にこんもりと丸い蓋があり、その根元の隙間から燃焼ガスを上に逃がして火力を保つように工夫したものだそうです。
 北海道でジンギスカンが本格的に普及したのは、第二次世界大戦後のことだと言われています。松尾ジンギスカンの専務、歌原清氏によると、北海道でジンギスカンが普及した理由は「値段が安い割に美味しい肉料理だったからですが、名前の魅力も大きかった」とのことです。
 ちなみに、北海道でジンギスカンのお店を最初に出したのは1946年の精養軒で、札幌に出店したのが最初だそうです。