麩、ふ

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更新日:
 2020年8月11日



◎麩、ふ(2020年8月11日)
 「ふ(麩)」とは、小麦粉のタンパク質(グルテン)を練り固めた食品で、「生麩(なまふ)」と「焼き麩(やきふ)」がありますが、ほとんどが「焼麩」です。南北朝時代(1336年~1392年)頃に中国から伝わったとされており、歴史がある食べ物です。
 中国では隋や唐の時代(581年~907年)頃から、小麦蛋白(グルテン=麩素)は「麪筋(メンチン)」と呼ばれ、食べられていたそうです。「麪筋」とは、「麪(麺=小麦粉)の筋」という意味のようです。隋や唐の時代に流布していた大乗佛教の教義に基づく肉食忌避の食習慣から、「素食」と呼ばれる精進料理のような食べ物が流行していたようです。「麪筋」は、このような時代背景で中国国内に普及していったようです。
 日本に麪筋が伝来したのは、南北朝時代または室町時代(1338年~1573年)と考えられているようです。理由の1つには、この時代に編纂された「節用集(せつようしゅう)」に「麪筋」と思われる文字が見られることが挙げられるそうです。
 当時、多くの日本の仏僧が中国に留学し、様々な文化を持ち帰ってきています。麪筋を蒸したものは肉食禁断の仏僧の貴重なタンパク源であった事から、日本にもこの食文化が伝えられ、精進料理のような日本の食文化に反映されていったと考えられます。
 「麩(ふ)」という名称がある最も古い文献は、中世法隆寺の日記文書である「斑鳩嘉元記」だそうです。正平七年(1352年)壬辰五月十日条、「三肴立毛、タカンナ(篁=筍)・ウトム(饂飩)・フ(麩)・サウメン(素麵)・一折敷・数六・粽・ムキ(麦)粽一杯・アメ(飴)一杯・ワリコ(破り籠)・ヒワ(枇杷)一フサ・白瓜少々・ハイ(盃)少々。」という記述があるそうです。
 伝来の経緯から「麩」は、しばらくの間、寺院と宮中の中でのみ食べられていたようです。このため社寺が多く、御所のある京都を中心に発展していったようです。人見必大によって江戸時代の1697年(元禄10年)に著された「本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)」という本草書には「京師市上造成者為上品」と書かれ、「麩」は京都の名物として知られていたことが伺えます。また、曲亭馬琴が1802年(享和2年)に記した旅行記「壬戌羇旅漫録(じんじゅつきりょまんろく)」には「京にて味よきもの。麸。湯波。芋。水菜。うどんのみ。その餘は江戸人の口にあはず」と書かれているそうです。
 歴史を戻すと、「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ:1344年)」、「山科家礼記(やましなけらいき:1412年~1493年)」、「尺素往来(せきそおうらい:1401年~1428年頃)」、「山内料理書(やまのうちりょうりしょ:1497年)」、「北野社家日記(きたのしゃけにっき:1449年~1627年)」など、多くの書物に「麩(ふ)」の記載があるようですが、「煎麩(いりふ)」、「炙麩(あぶりふ)」などの炒ったり、炙り焼きの食べ方の他、吸い物の具としての利用、さらに小麦粉等の穀粉やその澱粉質(「沈」や「浮粉」等)を水で溶いてクレープ状もしくは煎餅状に焼いて味噌や甘味料で調味した菓子類、すなわち「麩ノ焼」などもあったようです。
 「ふのやき」は「麩」を焼いたもので、当時としては大変珍しい物とされており、料理としてではなく菓子として珍重されていたようです。天正年間(1573年~1592年)に千利休が催した「天正茶会百席」には、菓子として「ふのやき」が多く供されていたことが、当時の「茶会記」に記されているそうです。
 江戸時代になって、ようやく「麩」が全国に広まっていったようです。江戸時代の食に関する書物に「麩」に関する内容が見られ、この時代に麩が庶民に広がったと考えられているそうです。1800年(寛政12年)には江戸幕府が西洋の小麦と、その生産方法を入手し、試産を始めました。また1859年(安政6年)には開港すると共に、初めて「精白小麦粉」が日本に輸入されました。これらを原料として「麩」を作る技術が発展していったと考えられます。
 精白小麦粉が使用される明治時代からは、現在の焼麩が生産されるようになり、「すきやき」や「味噌汁」、「酢の物」などの材料に使用されるようになりました。また、国内産の精白小麦も生産できるようになり、「麩」の需要が伸びていき、「麩」を扱う業者も全国的に増えていったようです。
 しかしながら1941年(昭和16年)、第二次世界大戦の影響によって日本は食糧難に陥り、食糧管理法によって小麦の供給もなくなったため、麩の業者は休業や廃業を余儀なくされ、業界は停滞を迎えました。小麦粉の統制が解除されたのは1952年(昭和27年)です。戦前、「麩」の製造業者数は全国で1200軒ほどあったようですが、食生活の洋風化や多様化の影響もあり、転業あるいは後継者問題での廃業などの結果、今日では全国で200軒を下回るまで減っており、現在も減少傾向が続いているそうです。
 現代の麩は「生麩(なまふ)」と「焼麩(やきふ)」の2種類に区分されていますが、まず「小麦グルテン」を作る必要があります。「グルテン」とは、粘着性のあるグリアジンと弾力性のあるグルテニンという、主に2種類のタンパク質から出来ています。小麦グルテンの精製には、タンパク質が豊富な小麦粉(強力粉)、塩、水が使用されます。小麦粉に塩と水を加え、こねた生地を水で揉み洗いすると、デンプン質が水と共に洗い流されます。これによりタンパク質が抽出され、小麦グルテンが形成されます。



1. 生麩(なまふ)
 生麩は焼麩よりも歴史が古く、「麪筋」が発展した形といえます。製造方法としては、まず小麦グルテンにもち粉を混ぜて練り上げた生地を棹状の型に入れて蒸したり、平たくした生地に餡を包み入れて茹でると完成です。ヨモギ、青海苔、そば粉、粟などを加えた生地で作った「あわ麩」、「よもぎ麩」、「麩まんじゅう」、「すだれ麩」などの製品もあります。

2. 焼麩(やきふ)
 江戸時代末期に作られ始めたとされています。当時の焼麩の多くは、グルテンに小麦粉を加えて練り上げ、棒状に伸ばして平鉄板の上で焼き上げて、輪切りにしたものです。
 その後、用途に応じて異なる太さの「焼き麩」が作られるようになり、太いものは「すき焼き」に、細いものは「吸い物」に使用されるなど、使い分けがされています。
 「焼麩」は保存性が高く、現代の日本において、一般的に「麩」というと「焼麩」を指すことが多いと考えられます。焼麩の製造方法は以下のような種類があります。



(1)直火焼
 木または鉄製の棒に生地を巻き付け、直火の上で回転させながら焼きます。(車麩、板麩)

(2)蒸し焼
 大きな平面の釜に生地を伸ばし置き、水を打ちフタをして蒸し焼きます。水蒸気によって、麩の表面が固くならずに、大きく膨らみ、柔らかい質感に焼きあがります。(切麩)

(3)型入焼
 松茸や花などの細長い金型を作り、着色した生地を入れ、釜で焼き、裁断します。小形で色付きの焼麩ができます。(花麩、松茸麩)

(4)金型焼
 四角形や半球状の金型に一粒ずつ生地を詰めて、火にかけて焼きます。麩の表面が焼かれることから、外は固く、中は柔らかい仕上がりとなります。(丁子麩)

 また、これらの製造方法ではない手法で作られた麩としては「油揚麩」があります。

 なお、現在では製法や形が異なる地方色豊かな製品があります。「油麩(仙台麩)」は棒状の揚げ麩で、旧仙台藩地域(岩手県南部および宮城県)の伝統食材です。このほか山形県の「庄内麩(板麩)」や、新潟県の「車麩」などが有名です。
 また、食紅などを使って彩りよく花の形や、手毬の形にしたものは「飾り麩」といい、京都の「京小町麩」、「花麩」、石川県の「加賀飾り麩」などが有名です。
 人間の食用以外には、焼き麩を粉状にしたものがコイやヘラブナの釣りエサに用いられています。