カレーライスのお話

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更新日:
 2013年8月2日


◎カレーライス(2013年8月2日)
・日本におけるカレー
 日本にカレーが伝わったことを伝える詳細資料はなく、どこに、いつ伝わったかは、はっきりしていないようです。伝来した時期は、江戸末期と言われていますが、伝来の地については北海道説、横須賀説、横浜説などがあるようです。その中でも、1859年(安政6年)年に横浜港が開港し、イギリス船によって横浜にもたらされたというのが通説になっているようです。
 幕末の1858年(安政5年)、日米修好通商条約が締結され、翌1859年7月1日に長崎港、横浜港、函館港が開港されました。これらの地域は、開港以来、日本の窓口として発展していきました。当然、牛乳、パン、アイスクリームなどの洋食文化が流入したことから、カレーも伝来したものと考えられます。1870年頃(明治時代のはじめ)には、「C&B カレーパウダー」が入っていたようです。
 1863年(文久3年)、幕末の混乱期、英国との外交問題収拾のため、ナポレオン三世に助力を請うために派遣された江戸幕府の横浜鎖港談判使節団は、途中でフランスの船に乗りかえ、インド人たちと乗り合わせました。この時、随行員の三宅秀(ひいず)が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記しているそうです。これが最初の「カレー目撃談」で、まだカレーが普及していなかったことが分かります。
 その後、1870年(明治3年)に日本最初の物理学者となる山川健次郎が米国留学への船上でライスカレーが出されたようです。このため山川健次郎は、日本人で最初にカレーを食べた人物として知られているようです。山川が、いつ、初めてカレーを食べたのかは不明ですが、初めてカレーを見た時には、「食う気になれず」と日記に記したようです。このため、当時16歳の健次郎は、カレーの下の御飯だけを食べていたようです。(“日本人はカレーライスがなぜ好きなのか”、井上宏生、平凡社)
 ところが、この後、たった2年の間に、カレーは日本国内で急激な展開をしていきます。明治新政府が西洋の進んだ文化を取り入れ、欧米諸国に負けない国家作りが急務と考え、いろいろな政策を実施していったことにも一因があるようです。
 その政策の一部として、明治4年には「牛店雑談安愚楽鍋(仮名垣魯文)」、明治5年には「西洋料理指南(敬学堂主人)」、「西洋料理通(仮名垣魯文)」、「牛乳考(近藤芳樹)」などの料理書が発行されました。積極的に西洋の食文化を取り入れ、徳川時代には食べていなかった食材を取り入れることによって知力、体力の充実を図ろうとしたようです。
 この「西洋料理指南」と「西洋料理通」は、日本の西洋料理の原点ともいうべき貴重な料理指南書ですが、「西洋料理指南」は、当時の高級官僚が匿名で著したものだそうです。「西洋料理指南」は、西洋料理から、健康増進、体格向上をはかること、欧米旅行をする際のテーブル・マナー等に精通すること、調理法を学ぶことなどを目的として編集されたそうです。
 「西洋料理指南」には、「カレーの製法」として「葱一茎、生姜半箇、蒜(にんにく)少許(すこしばかり)ヲ細末ニシテ、牛酪大一匙ヲ以テ煎リ、水一合五タ(しゃく)ヲ加へ、鶏、海老、鯛、蠣、赤蛙等ノモノヲ入テ能ク煮て後、「カレー」ノ粉一匙ヲ入れて煮ル。西洋一字間已ニ熟シタルトキ、塩ニ加へ又小粉(うどんこ)大匙二ッ、水ニテ解キテ入ルベシ」とあるそうです。
 一方の「西洋料理通」は、横浜に来たイギリス人が、雇人に西洋料理を作らせるための手控え帳を種本に、新聞記者であり戯作者であった仮名垣魯文が書いたものとされており、「コリードビーフ」という名称でカレーの製法が記されています。そこには、「綿羊の冷残肉(あまりにく)、葱二本、ボートル四半斤、シトルトスフウン匙カリー粉一盛、同匙(おなじさじ)に麦の粉一ト盛り。塩加減、水及び汁露物等を論せず一合程。右製法。葱を薄く斬り、ボートルと共に鍋の中に投下し、鼠色になるを度(めど)とす。而(さて)カリーの粉並に小の粉塩と共に攪轉(かきまぜ)し、能々(よくよく)交混(まぜ)、その後薄切の葱とボートルの鼠色になりし物を、カリーの粉及び小の粉塩の中に投下(いれ)て、肉を薄切にし、或は刻み、鍋の中に投下、前(さき)の品々と混合(まぜあわ)せ 、十ミニュート (分) の間程緩(ゆる)火を以て而水或は汁を煮る投れ再び緩火を以て煮るる半時ばかり。その後、皿に盛り、皿を環らし、飯をぐるりと盛り食に備ふ」と記載されているそうです。
 この2種類のカレーの作り方に共通しているのが、とろみをだすために「小麦粉」を使っている点です。この「カレー粉+小麦粉」という調理法は、インドの料理には見られません。すなわち、イギリスでアレンジが加えられた料理法が日本に「カレー」として伝わったということです。
 同じ1872年(明治5年)には、北海道開拓使東京事務所で、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問であるホーレス・ケプロン(Horace Capron:1804年8月31日~1885年2月22日)用の食事にライスカレー(当時の表記は、タイスカリイ)が提供されたことが分かっているそうです。これが、「ライスカレー」という単語が、日本で正式に使われた最初期の例だそうです。
 翌1873年(明治6年)には、陸軍幼年生徒隊の食堂の昼食メニューにライスカレーが加えられたそうです。
 また、1876年(明治9年)には、クラーク博士(William Smith Clark:1826年7月31日~1886年3月9日)が札幌農学校教頭に赴任しました。札幌農学校の授業は全て英語、かつ、全寮制だったそうです。量の食事は洋食で、クラーク博士は「生徒は米飯を食すべからず、但し、らいすかれいはこの限りにあらず」という規則を定め、寮では、1日おきにライスカレーが出されたそうです。
 その後、1893年(明治26年)には、「婦女雑誌」に、即席ライスカレー」の作り方が紹介されたそうです。それは、「煎茶茶碗に一杯のバターと葱三、四本を細かに切りたるを深き鍋に入れ、強き火に懸け、葱の柔らになりたる時、煎茶茶碗に八分目程の粉を入れ、絶えず攪き廻しながら鳶色になるまで煎りつけて、煎茶茶碗に半杯のカレイ粉(西洋食糧店にあり)を入れ、かくて鰹節の煮汁(これは鰹節半本にご飯茶碗六杯の水にて前に拵へ置くべし)を少しづつ注ぎ入れながら掻き回し、醤油を適宜に加へ十分間程弱き火に懸け、味噌漉しにて漉し、其汁へ湯煮したる車鰕或は鳥肉を入れ、炊きたての御飯にかけて食すべし。」と記載されていたそうです。とても即席とは思えませんが、当時の日本での食事作りからすると、大分、時間が短縮されたものなのでしょうか。
 明治30年代になると、カレーライスは卓袱屋(ちゃぶや:居酒屋を兼ねたような洋食屋)のメニューの定番になっていったようです。卓袱屋は、横浜や神戸に生まれた、主に外国の下級船員を相手とした店ですが、そこに日本人も行くようになっていったようです。当時、洋食の中でカレーの人気が高く、価格は5~7銭程度だったようです。
 1901年(明治34年)に正岡子規が書いた「仰臥漫録」には、カレーが登場します。正岡子規は、いち早く野球に目を付け、自分でもやってみて「野球」と名付けたほどの新しもの好きの人です。彼は若くして脊椎カリエスにかかり、寝たきりの生活を送ることになりましたが、その病床日記の中にカレーライスを食べたことが記されています。この当時、家庭でカレーライスを食べるのは、相当な新しがりだといえます。
 1903年(明治36年)に報知新聞に連載され、1904年(明治37年)に単行本となった村井弦斎の「食道楽」という料理小説には、牛肉カレー、鶏肉カレー、魚カレー、アサリカレー、玉子カレーなど、様々なカレーの食べ方とレシピが紹介されています。
 カレーが日本の家庭料理として発展していくためには、家庭で簡単にカレーを作ることができるカレー粉の普及が必要です。日本で最初にカレー粉を販売したのは、大阪の薬種問屋、「今村弥(現、ハチ食品)」だったそうです。
 「今村弥」は、大阪、道修(どしょう)町で薬種問屋をしており、1903年(明治36年)には、販売していた「鬱金粉(ウコン粉)」が第五回内國勧業博覧會において有功褒賞を獲得しています。この薬問屋がカレー粉を販売するに至った経緯は、以下のように説明されています。(2013年8月、ハチ食品のHPより)
 1905年(明治38年)、当時の主人であった今村弥兵衛は、ある日、漢方薬をしまっている蔵に入った時、柳行李の中から良い臭いがしていることに気付いたそうです。その香りが、当時、海外から輸入されていたカレーの匂いと似ていることに気づき、行李の中身を確認したところ、ウコンや唐辛子などの香辛料が入っていたそうです。そこで弥兵衛は香辛料を調合し、カレー粉を作って売り出すことを思いついたのだそうです。
 ある日、薄暗い蔵の中でカレー粉を作っていた弥兵衛が、ふと顔を上げた時、きれいな光景が目に飛び込んできたそうです。窓に1匹の蜂が止まっていて、その蜂に朝日が注がれ、黄金とも飴色ともいえる素晴らしい輝きを放っていたそうです。その輝きが、とても素晴らしい光景に思え、作ったカレー粉に「蜂カレー」と名付けたそうです。当時のキャッチフレーズは「洋風どんぶりがうちでも作れまっせ!」だったそうです。また、当時のパッケージには、商品名にちなんだリアルな蜂のロゴマークが印刷されていたそうです。(今村弥は、昭和32年に社名を「蜂カレー株式会社に変更、さらに昭和44年に「ハチ食品株式会社」に社名変更しています。)
 当時、「関東の朝炊き、関西の昼炊き」という言葉があり、大阪は商人の町であったため、朝食は前夜の冷たい御飯に残り物というのが定番だったようです。そのような食生活の中にカレーが登場したのです。カレーは温めるだけで美味しく食べられ、簡単なため、人気となったようです。
 東京で即席カレーが販売されたのは、大阪よりも遅かったようです。1906年(明治39年)に神田の「一貫堂」が「ライスカレーのたね」という固形の即席カレーを売り出しました。発売時の広告には、「本種はカレー粉及び極上生肉等を混合乾燥し、固形体となしたる故、腐敗の憂いなく、製造は熟練となるコックに担任せるを以って、其味美に其香芳しく、用法は熱湯を以てドロドロに溶き、温き御飯にかけて食べるのです。故に旅行携帯に至便、スワ来客という場合、珍味を供する便利あり。尚、流行の蒸パンにバタの代りに着けて召しあがると至って結構です。」と書かれていたようです。お湯で溶くだけですぐ食べられるという画期的な「インスタント食品」だったようです。また、当時、蒸パンが流行していたといのも面白いですね。
 東京でもカレーが広まっていった結果、1908年(明治41年)9月1日から12月29日にかけて「朝日新聞」に連載された夏目漱石の名作「三四郎」にもカレーが登場します。「三四郎」では、大学の講義を聴いている最中に、ポンチに先生の似顔絵を描く男がいて、三四郎はその男に連れられて本郷通りの「淀見軒」という食堂でライスカレーを食べています。東京でも、カレーが普及していたことが分かります。
 また、日露戦争(1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日)の時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることになった海軍の横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事として、メニューにカレーライスを採用したそうです。
 海軍当局は、1908年発行の「海軍割烹術参考書」にカレーライスのレシピを掲載して普及させ、海軍内の脚気の解消に成功しました。カレーライスの材料は、調味料を醤油と砂糖に代えれば、そのまま「肉じゃが」になるため、補給の面でも都合がよく、これも軍隊食として普及した理由だったようです。当時は、肉としては主に牛肉が利用されており、第二次世界大戦時に食糧事情の変化によって豚肉も使われるようになったようです。
 その海軍のカレーですが、「海軍割烹術参考書」では、次のように記述されていたようです。

<カレイライス>
 材料:牛肉(鶏肉)、人参、玉葱、馬鈴薯、鹽「カレイ粉」、麥粉、米
 初メ米ヲ洗イ置キ、牛肉(鶏肉)、玉葱、人参、馬鈴薯ヲ四角ニ恰モ賽ノ目ノ如ク細カク切リ、別ニ「フライパン」ニ「ヘット」ヲ布キ麥粉ヲ入レ、狐色クライニ煎リ「カレイ粉」ヲ入レ「スープ」ニテ薄トロヽノ如ク溶シ、之レニ前ニ切リ置キシ、肉野菜ヲ少シク煎リテ入レ(馬鈴薯ハ人参玉葱ノ殆ド煮エタルトキ入ル可シ)弱火ニ掛ケ煮込ミ置キ、先ノ米ヲ「スープ」ニテ炊キ、之レヲ皿ニ盛リ、前ノ煮込ミシモノニ鹽ニテ味ヲ付ケ、飯ニ掛ケテ供卓ス此時漬物類即チ「チャツネ」ヲ付ケテ出スモノトス

 ちなみに、現在の海上自衛隊では、毎週金曜日に全ての部署でカレーライスを食べる習慣になっているそうです。海上勤務では、交代勤務のため、休みが曜日で決まっていないため、曜日の感覚がなくなります。そこで、毎週、決まった日をカレーにすることによって、曜日の感覚を取り戻せるようになるとのことです。

 また陸軍でも、海軍から遅れること2年、カレーがメニューに採用されたようです。1910年に編纂された「軍隊調理法」には、「カレー汁掛飯」として、以下の調理法が記載されていたようです。

<カレー汁>
 材料(一人分)
  牛肉(豚肉、兎肉、羊肉、鳥肉、貝類)、七十瓦
  馬鈴薯、一〇〇瓦
  人參、二〇瓦
  玉葱、八〇瓦
  小麥粉、一〇瓦
  カレー粉、一瓦
  食鹽、少々
  ラード、五瓦

 準備
  イ 牛肉ハ細切リトナシ置ク。
  ロ 馬鈴薯ハ二糎角位ニ、人參ハ小口切リトナシ、玉葱ハ縱四ツ割リニ切リ置ク。
  ハ 「ラード」ヲ煮立テ小麥粉ヲ投ジテ攪拌シ、「カレー粉」ヲ入レテ油粉捏(カレールー)ヲ作リ置ク。

 調理
  鍋ニ牛肉ト少量ノ「ラード」ト少量ノ玉葱ヲ入レテ空煎リシ、約三五〇竓ノ水ヲ加ヘ、マヅ人參ヲ入レテ煮立テ、馬鈴薯、玉葱ノ順デ入レ、食鹽ニテ調味シ、最後ニ油粉捏ヲ煮汁デ溶キ延バシテ流シ込ミ、攪拌ス。

 備考
  温カキ御飯ヲ皿ニ盛リテ、ソノ上ヨリ掛クレバ「ライスカレー」トナル。

 ちなみに、太平洋戦争中は「カレー」ではなく「辛味入汁掛飯」と記述されていたようです。

 その後、1914年(大正3年)には東京、日本橋久松町の岡本商店が元祖「カレールウ」といえる「ロンドン土産即席カレー」を売り出しました。これは、お湯で溶いて、その中に肉や野菜を入れて煮るとカレーができるという優れものでした。ただし、現在のように固形ではなく、粉末状で缶入り、15人分で30銭という金額だったそうです。当時、町の食堂で食べられるライスカレーの値段が5~7銭程度だったようですから、それほど安くはないですが、家庭で簡単に作れる、ということが受けたようです。
 また、この頃から婦人雑誌の誌面で通信販売が盛んになり、「ロンドン土産即席カレー」も「婦人之友」の通信販売に取り上げられたそうです。「手軽に出来て美味、食欲の進まぬ時、突然の来客のあった時、之が一番」というコピーが添えられていたそうです。

 カレーが日本中に広まっていったのは、このようなカレールウやカレー粉の商品化も大きな要因ですが、やはり軍隊の影響が大きかったのではないでしょうか。軍隊と言っても、やはり陸軍の影響が大きかったように思います。
 上述したようにカレーが料理として登場したのは海軍の方が早いのかもしれません。しかし、海軍は軍艦に乗りますので、調理は専門の調理師(主計兵)が作ります。このため、「カレー」という料理が出されて「美味しい!」と思ったとしても、作り方は分かりません。
 ところが陸軍は、戦地戦時下においては、全兵士が自らまかないをするというのが原則らしく、誰もが料理をする環境だったようです。当時は徴兵制がありましたので、兵役が終了した人たちが地元に戻り、カレーが美味しかったと言えば、家庭でも作ろうとするでしょう。そのような環境下、いろいろなメーカーがカレー粉を販売していったのも、このように需要が拡大していったことが原因であったと思われます。
 1923年(大正12年)には「日賀志屋(現、エスビー食品)」が、国産カレー粉を製造し、業務用(1ポンド缶)として販売を始めました。(その後、1930年(昭和5年)に「ヒドリ印カレー粉」として家庭用に販売を開始した。)
 1926年(大正15年)にはカレー粉の「ホームカレー」を販売していた「稲田食品製造所」を吸収合併した浦上商店(現、ハウス食品)が、「ホームカレー」の製造、販売を開始しました。(「ホームカレー」は商標権の問題があり、1928年(昭和3年)に「ハウスカレー」に改称。)
 その後、終戦を経て、1950年(昭和25年)にベル製菓が板チョコタイプのカレールウを売り出したことが、戦後のカレー普及に一役買っていると思われます。(ベル製菓は、その後、ベル食品と改称した後、事業を売却しました。1952年に創業したベル食品工業とのつながりは、良く分かりません。)
 この固形ルウという形の商品が、家庭料理としてのカレー普及に大きな役割を果たしています。市場が大きくなっていくにつれ、1954年にはヱスビー食品が「ヱスビー即席カレー」を、1960年には江崎グリコが「ワンタッチカレー」、ハウス食品が「ハウス印度カレー」を発売しています。
 現在では、家庭用カレーの他、いろいろな専門店、御当地カレーなど、様々な形でカレーが食べられており、日本人の国民食の1つと言っても良い状況になっています。