鳥貴族

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更新日:
 2024年2月25日



◎鳥貴族(2024年2月2日)
 「鳥貴族」は大阪市浪速区に本社がある株式会社鳥貴族ホールディングス(設立:1986年9月19日、資本金:14億9,182万9,125円、代表取締役社長:大倉忠司)の100%子会社である株式会社鳥貴族(本社:大阪市浪速区、資本金1,000万円)が運営している居酒屋です。2023年7月現在、直営394店舗、加盟店232店舗の合計626店舗を展開しています。「鳥貴族」の大きな特徴は、全品328円(税込360円)均一という点です。低価格、高価値をモットーとして、20代〜30代のお客さんを中心に人気のお店です。
 鳥貴族創業者の大倉忠司(おおくら・ただし)氏は、1960年2月4日に中小企業の街、大阪府東大阪市で生まれました。生家はブリキ玩具の「型」を製造する町工場で両親と2歳上の兄の4人家族で、機械の音や油のにおいに囲まれて育ったそうです。大倉忠司氏は高校2年生の16歳の時、ビアガーデンでアルバイトを始め、2年間、働いたそうです。1年目はホールで仕事をしていたそうですが、翌年、社員に真面目な仕事ぶりが認められ、焼き鳥とおでんの部門を任されるようになり、飲食業の面白さに目覚めたそうです。
 そして大倉忠司氏は高校を卒業後、大阪あべの辻調理師学校に入学し、1年学ぶと、1979年に大阪リーガロイヤルホテル内で営業していたイタリアンレストランの店に入社したそうです。調理師志望だったものの、最初はホール係に配属され、その結果、接客に目覚めたそうです。その頃、大倉忠司氏の自宅の近所に焼き鳥のチェーン店、「やきとり大吉」ができたことから、通うようになったそうです。そのうち店長とも仲良くなったそうですが、ある時、その店長が独立して新たに焼き鳥店、「焼鳥道場」を開業しました。大倉忠司氏は、その店にも通い続けていたそうですが、そのうち店長から「店を手伝ってほしい」と頼まれたそうです。そして手伝いをしているうちに気に入られ、「お前、仕事できるな。うちへ来いよ。」と誘われたそうです。ただ、当時はイタリアンレストランで働いていたので、どちらかというと「洋食」の方に気持ちが傾いていて、すぐにはOKしなかったそうです。
 しかし、半年間、ずっと誘われ続けたある日、その店長から「実は、俺はどんどん店を出して大きなチェーンを作りたい。大倉君にはその片腕になってほしい。」と言われると、その夢に惚れてしまい、焼き鳥店に転職することにしたそうです。そして1982年11月に「焼鳥道場」に入社したそうです。
 この店長のもとで3年くらい働き、社内ではナンバー2のポジションで7店舗まで展開したそうですが、その頃から大倉忠司氏は自分で焼き鳥店をやりたいという気持ちが強くなっていったそうです。そして大倉忠司氏が25歳になる前に、店長に独立したい旨を告げたそうです。
 そして1985年5月に個人事業として焼鳥屋「じゃんぼ焼鳥 鳥貴族』」(「鳥貴族」の1号店で、後の「鳥貴族 俊徳店」)を大阪府東大阪市に開店しました。近畿日本鉄道、俊徳道(しゅんとくみち)駅の近くで店舗面積は9坪、27席のお店だったそうです。店名の由来は、「お客さまを貴族扱いする」という心構えだそうです。投資総額は1200万円で、自分の貯金200万円と父親が家を担保に借金して1000万円を用意してくれたそうです。最初は全品250円均一にしようとしたそうですが、ビールの原価が200円程度もしたことから250円均一では赤字になると判断し、150円、250円、350円の3本立て均一料金メニューとしたそうです。
 大倉忠司氏は、それまでの赤提灯に縄のれん、炭火で団扇を使って焼き鳥を焼くので店内は煙がモーモーと充満し、カウンター中心で男性中年客ばかりの焼鳥屋ではなく、若い男女が来店できる「明るくオシャレな焼き鳥屋」を目指したそうです。このため、当初はガス焼き台で焼鳥を焼いていたそうですが、その後、電気グリラーに切り替えたそうです。
 しかしながら、「鳥貴族 俊徳店」を開業した場所は、大家さんが「誰が何をやっても流行らない」というほどの三流立地だったそうです。このため家賃は月4万3000円と安かったものの、よほどインパクトのあるメニュー提案をしないと集客は難しかったそうです。そこで店内に価格破壊のPOP広告を貼って、「居酒屋革命」を宣言したそうですが、顧客吸引力が弱く、閑古鳥が鳴く日が続いた。開業から1年数ヶ月間は赤字が続き、倒産と隣り合わせの切迫した状態が続いたそうです。
 この間に大倉忠司氏は居酒屋「村さ来」の創業者で日本料飲コンサルタンツ社長であった清宮勝一氏の「居酒屋ビッグ・ビジネスへの戦略発想 外食産業のニューリーダーが初めて明かす(1985年4月刊)」という本を読み、「粗利益率の高い商品と低い商品とを組み合わせて販売し、一定の粗利益率と客単価の確保を狙う」というマージンミックスの考え方を知り、この方法を導入することを考えたそうです。また、原価率での価格設定による儲けるための考え方から、お客様が喜ぶメニュー作りに考え方を変えたそうです。例えば、従来の焼き鳥店が1本25グラム、原価率28%前後で提供していたことに対して、大倉忠司氏は焼き鳥を1本32グラム程度で提供していたそうです。しかし、国産ブロイラーの新鮮な鶏肉は大きめに串打ちしたほうがジューシーで美味しいと考え、1本60グラムで提供することに決めたそうです。原価率は35%から48%にハネ上がり、利益率は大幅に下がったものの、儲けが減る分は自分の給料を減らせば良いと考えたそうです。
 こうして大倉忠司氏は「鳥貴族」の創業1年後の1986年に150円、250円、350円の3本立て均一料金と決別し、ビールも含めた「全品250円(税抜)均一」に業態転換しました。飲料、フードメニュー全てのマージンミックスで少しでも利益を確保すれば良いと、腹をくくったそうです。結果的に、この決断が倒産寸前の鳥貴族を救いました。原価率を48%まで上げた国産の新鮮な鶏肉の焼き鳥は質、量ともに顧客に満足感を与えたそうです。「全品250円均一」という低価格、高品質の鳥貴族の評判は顧客から顧客へと口コミで広がり、リピーターや新規の客が押し寄せたそうです。
 また、この1986年9月に株式会社イターナルサービス(資本金4,000千円)を設立し、個人事業から会社組織としました。当時は「むらさき」や「つぼ八」など、居酒屋ブームだったことから、もう1店出そうと考え、一緒に始めた副社長と2人で資金を集め、2店目を出したそうです。この2店目は「お祭り居酒屋 えんにち」というお店で、均一価格にはしなかったそうです。結果として、この店は赤字が続き、大失敗となり、1995年に副社長が辞めてしまったそうです。
 一方、「鳥貴族」の売上は、「お祭り居酒屋 えんにち」がオープンする前から徐々に上がっていったそうです。2店目が失敗した結果、大倉忠司氏は1995年に商売を「焼き鳥 鳥貴族」の単一事業で行こうと決めたそうです。その理由は、@スタッフを教育しやすい、A厨房がシンプル、B均一価格が無理なくできる、ということが大きかったそうです。
 大倉忠司氏は、この成功体験から、ライバル店や同業他社を一切、意識せずに「お客様歓喜だけを追求する」こととし、鳥貴族のビジネスモデルを創っていったそうです。参考にしたのはコンビニエンスストアや低価格イタリアンレストランのサイゼリヤなどだったそうです。ただし原価率が非常に高く、薄利多売のビジネスモデルであったため、店舗数が100店舗を超すまでは規模の経済が働かず、悪戦苦闘したそうです。
 その後、1989年に消費税3%が導入されたタイミングで「全品280円均一」に値上げをしました。1998年にキリンビールが発泡酒「麒麟淡麗〈生〉」を新発売、飲食店向けに「樽生」を発売すると、いち早く「淡麗〈生〉700ml」(現在はサントリー「金麦生樽700ml」)を飲料メニューに導入し、看板メニューにしました。そして2002年には一般の3〜4倍もある名物焼き鳥「貴族焼(むね・もも、ネギ付き1本90グラム=1人前2本)」を開発しました。このような営業展開によって人気店となり、店舗数も増えていきました。
 消費税は1989年以降、1997年4月1日から5%、2014年4月1日から8%と段階的に引き上げられていきましたが、鳥貴族は「全品280円(税抜き)」を続けていました。しかし、2017年10月に298円(税抜き)に値上げされ、2022年4月には319円(税抜き、税込み350円)に引き上げました。さらに2023年5月1日からは全品均一価格を319円(税抜き)から328円(税抜き、税込み360円)に値上げしました。原材料価格の高騰や物流費、エネルギーコストの上昇を要因に挙げています。





・ハート(ハツ)タレ



・砂ずり(砂肝)



・鳥貴族 俊徳店
 住所:大阪府東大阪市荒川3-32-4
 ※ 2008年に駅前の再開発により立ち退きとなり、閉店