自由軒

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更新日:
 2018年12月10日



◎自由軒(2018年12月10日)
 自由軒は1910年(明治43年)に吉田忠次郎氏が大阪市初の西洋料理店として大阪市南区難波新地に開店した大阪の老舗洋食店です。当時、自由民権運動が起きていたことから、新しい風を感じられる「自由」という言葉を店名に冠したそうです。御飯とカレールウが混ぜられたカレーを山型に盛って、真ん中に生玉子を載せたカレーが有名なお店です。ちなみに自由軒では、「名物カレー」という名称ですが、後述するせんば自由軒では、「名物インディアンカレー」という名称になっています。
 この「自由軒」という名前を冠した「せんば自由軒」というお店がありますが、こちらは、現在は自由軒とは関係がなくなっているそうです。ただ、「せんば自由軒」も、元々は自由軒から独立した正式な店舗であり、その後の経緯で複雑な関係になっているようです。両社の歴史を両社のWeb siteで見ていくと話が微妙に食い違うので、何が正解か分かりません。時代が古い方が正しいものとして以下に歴史をまとめてみます。
 1910年(明治43年)に創業した自由軒は1919年(大正7年)に吉田忠次郎氏の弟、吉田四一氏とその妻、たね氏に経営が引き継がれたそうです。この頃、文明開化による西洋文化の広がりが、衣食住のあらゆる分野に広がっていき、洋食も需要が増えていったようです。当時はビフカツを始めとした西洋料理を比較的安価な値段で提供していたようです。
 既に、この頃、カレーライスは庶民の食べ物として普及していたようです。家庭で簡単にカレーを作ることができるカレー粉は、大阪の薬種問屋、「今村弥(現、ハチ食品)」が1903年(明治36年)頃、販売を始めたようですので、大正時代に大阪でカレーが普及していたとしても不思議ではありません。
 しかし、現在と違って御飯を保温できる炊飯器がない時代であったため、店舗で熱々のカレーを出すことは難しかったようです。吉田四一氏は、「いつもお客様に美味しいカレーを食べていただきたい」と考え、「混ぜカレー」なるものを考案したそうです。これは、現在の「名物カレー」です。御飯が冷めていても、熱いカレーと混ぜ合わせることで、熱々の美味しいカレーとして提供できる、ということのようです。また、混ぜることによって庶民的な料理となり、テーブルマナーを気にせず、気軽に食べられると喜ばれ、これまで洋食を敬遠していた人々にも人気になったそうです。さらに、当時は高級品だった玉子を落とし、味や栄養にもこだわることで人気となっていったようです。
 1926年(大正15年)7月には法人格「合名会社自由軒」を設立したそうです。その後、1039年(昭和14年)〜1940年(昭和15年)頃には、小説家、織田作之助が通うようになったそうです。そして1940年(昭和15年)8月15日に織田作之助は「夫婦善哉」という小説を発表しましたが、その小説の中に「自由軒」と「カレーライス」が出てくるのだそうです。しかも「ここのラ・ラ・ライスカレーは、ご飯にあんじょうま・ま・まむしてあるよってうまい」という表現があり、人気に拍車をかけたようです。
 1947年(昭和22年)、終戦直後の大阪は、至るところが焼け野原の状態で、難波も壊滅状態にあり、自由軒も焼失していたそうです。しかし、吉田四一氏の次男、四郎や五男、憲治が尽力し、創業の地、難波に自由軒を再建させたそうです。ただ、戦争の影響で従業員も減少し、再建への道のりは厳しかったようです。
 1955年(昭和30年)、五男、憲治氏が戦前の総料理長、早野賢造氏一家4名を岐阜、大垣から大阪に呼び戻したそうです。早野氏の力もあり、創業時の味を再現することにも成功し、徐々に経営も上向きになっていったようです。
 1956年(昭和31年)に吉田たね氏が役員を退任し、吉田憲治氏が役員に登用されたそうです。そして1964年(昭和39年)、吉田四一氏の妻、吉田たね氏が死去したそうです。この頃には、次男、四郎氏と五男、憲治氏の間で何らかの確執があったのかもしれません。
 1965年(昭和40年)に憲治氏は合名会社自由軒の役員を退任したそうです。そして、翌年の1966年(昭和41年)には3代目の吉田四郎氏が株式会社自由軒を設立し、株式会社化したそうです。
 ただ、1970年(昭和45年)3月に五男、憲治氏が大阪市東区船場中央に「本町自由軒」(現在は「せんば自由軒」)を設立する際、四郎氏が許可したということが自由軒のWeb siteにも記載されていますので、大きな確執ではなかったのかもしれません。また、この「本町自由軒(せんば自由軒)(株式会社自由軒)」に総料理長、早野賢造氏が一緒についていったようですので、この点からも確執はなかったのかもしれません。ただ、こちらの商品名は「名物カレー」ではなく、「名物インディアンカレー」となっています。同じでないことには、何か理由があるのかもしれませんが、分かりません。
 週刊新潮、2018年5月31日号によると、吉田四郎氏の娘である吉田純子氏によると、「最初は問題なかったのですが、その息子の代になってレトルト(カレーの販売)やフランチャイズ経営をし始め、“自分のところが本家や”と主張なさっていたらしいです。名前が独り歩きしたか知りませんけど、あちこち手を出し過ぎてね。(そうなると)味、管理できませんわね」だそうです。
 次男、四郎氏と五男、憲治氏の間では、それほど問題はなかったようですが、憲治氏の息子、吉田彰宏氏が事業を拡大しすぎ、本家との仲が険悪になっていったようです。せんば自由軒は1989年(平成元年)には工場を建設し、工場で真空パックソースを製造したり、関西、関東、名古屋で10店舗展開(直営8店舗、フランチャイズ2店舗)するほか、レトルトカレーを販売するなどして事業をどんどん拡大させていったようです。2006年(平成18年)12月期には年間売上5億5000万円を計上していたとのことですので、事業の拡大が本家とは桁違いだったようです。
 ただ、その後、景気低迷の影響で売上が減少すると、多店舗展開に伴う多額の借入金が資金繰りを逼迫していき、2008年頃には税金を滞納するなど、資金繰りの逼迫が表面化していたそうです。従業員への給料支払いも遅滞していたようです。2010年(平成22年)2月には負債総額は4億5000万円で自己破産申請の準備に入り、倒産しました。結果として2010年(平成22年)2月21日付けで商標権、事業権、営業権及びせんば本店、本社工場を大阪市東成区に本社がある株式会社ベッセルの100%子会社である株式会社ベクトル(本社、東京都大田区)に譲渡しました。このため、現在では「せんば自由軒」と「自由軒」は、全く関係がない、ということになっているようです。
 この株式会社ベッセルは、ドライバーやドリルなどの工具などを製造、販売している会社で、タイ、フランス、アメリカ、中国にも子会社を持っている大きな会社です。(ただし、飲食業はやっていません。)株式会社ベクトルも、せんば自由軒の運営のみのようですので、吉田彰宏氏との関係があるのかもしれません。
 ちなみに「自由軒」という商標の使用については「自由軒」と「せんば自由軒」が裁判をしています。2003年(平成15年12月18日)に結審し、「自由軒」の全面勝訴に終わったそうです。その後、「せんば自由軒」が控訴したものの、裁判所の勧告に従って、1審判決に沿って和解となったそうです。しかし、「自由軒」の代理人弁護士によると、「せんば側は名前を使ったらアカンという1審判決を完全に無視しましてね。向こうの代理人とも数年にわたって交渉しましたが、依頼人に手を焼いたのか、『直接交渉してくれ』と言う始末。手を打たなアカンな、と思案していた矢先の倒産でした」ということで、「せんば自由軒」のやり方は、かなり問題があったようです。このようなこともあり、「自由軒」はWeb siteでも「せんば自由軒は現在では当店と関係がありません。」と明記しています。
 有名な「名物カレー」ですが、レシピも調理方法も創業当時から変わることなく、代々受け継がれているのだそうです。ちなみに名物カレーのレシピは、銀行の金庫で厳重に保管されているそうです。その名物カレーには「うすくち」と呼ばれるダシ汁が使われており、このダシ汁が独特の味わいを作り出しているのだそうです。また、名物カレーに使われている具はタマネギと牛肉のみです。カレーに多くの具を入れると、カレーそのものが持つ風味や味わいが失われてしまうため、あえて具を入れていないのだそうです。
 名物カレーは最低でも2日間かけてじっくりと煮込んでいるそうです。また、作り置きをすると、味、風味が全く変わってしまうため、毎日、仕込みをしているそうです。現在、自由軒は難波本店、天保山店の2店舗しかありません。





・名物カレー



・自由軒 難波本店
 住所:大阪府大阪市中央区難波3-1-34
 TEL:06-6631-5564
 営業時間:11:30〜21:00
 定休日:月曜日
 駐車場:無
 アクセス:近鉄、難波駅、地下鉄、各線、なんば駅、11番出口より徒歩2分
 カード:不可
 席数:38席
 オープン日:1910年(明治43年)