養老乃瀧

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更新日:
 2024年2月25日



◎養老乃瀧(2018年7月13日)
 「養老乃瀧」は東京都豊島区西池袋に本社がある養老乃瀧株式会社(創業:1956年(昭和31年)12月、設立:1961年(昭和36年)6月、資本金:5,154万円、代表取締役社長:矢満田敏之)が運営している居酒屋チェーン店です。
 「養老乃瀧」の創業者の矢満田富勝(やまんたとみかつ)氏は1920年(大正9年)3月25日に長野県東筑摩郡(現、長野県松本市)の農家の息子として生まれたそうです。成長すると大阪で出稼ぎをして資金を貯め、戦前の1938年(昭和13年)、18歳の若さで長野県松本市に「富士食堂」という食堂を開業しました。矢満田富勝氏は商才があったらしく、長野県内で100店舗以上を展開したそうですが、手を広げすぎた結果、経営不振に陥り、事業を手放すことになったそうです。
 そして横浜市に移ると1956年(昭和31年)12月、「大衆酒蔵 養老乃瀧」1号店を横浜市中区(現在の曙町)に開店しました。当初は、大衆食堂と酒場をミックスしたような業態で、24時間営業で大繁盛したそうです。しかし、従業員が食事をとる時間もないほど混雑したため、時間がかかる料理メニューをやめて、手軽な「居酒屋メニュー」にシフトしていったそうです。「富士食堂」では商品数を増やしすぎ、オペレーションが複雑になり、スタッフに負荷がかかっていたという反省があったことから、商品数を大幅に絞り込んでいったそうです。現在では、これが「総合型居酒屋」の元祖とされているそうです。
 1号店はたちまち評判となり、中区花咲町に第2号店、野毛小路に3号店と、横浜市内に次々と店舗を展開していきました。その後、5号店は川崎、7号店と8号店は鶴見というように京急線と京浜東北線に沿って少しずつ上京していく形で店舗を広げていきました。そして翌1957年には東京進出を果たし、さらには関西にも進出したそうです。1961年6月には養老商事株式会社(現、養老乃瀧株式会社)を設立しました。
 1965年には、当面の目標だった100店舗を達成したそうです。当時、養老乃瀧は食券制だったそうです。一般的に飲み屋はツケが普通の時代でしたが、現金での商売をすることで取引業者への現金支払いが可能になり、安く仕入れることができるようになり、価格競争力が強まったそうです。
 1966年4月にはフランチャイズ第1号店を板橋区成増に出店しました。まだ、フランチャイズという言葉はなく「暖簾分け商法」と言われ、店舗数を増やしていったそうです。丁度、高度経済成長の波に乗り、「会社帰りに少し飲んで空腹も満たす」というサラリーマンのニーズに応える形で人気となり、FC加盟店も増え、私鉄沿線の駅の近くなどに店舗を展開していき、1973年には1000店舗を達成しました。現在では全国で198店舗を運営しています。
 「養老乃瀧」という店名は、現在の岐阜県養老町にある「養老の滝」にまつわる言い伝えからだそうです。紀元8世紀頃、貧しいけれど一生懸命に働き、親をいたわった親孝行な息子の伝説があり、この話に心を打たれた矢満田富勝氏は「親孝行と勤勉」を社是とし、社名を養老乃瀧としたそうです。