崎陽軒

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更新日:
 2022年4月3日



◎崎陽軒(きようけん)(2022年3月27日)
 神奈川県横浜市西区に本社を置く株式会社崎陽軒(創業:1908年(明治41年)4月、資本金:1億円、代表取締役社長:野並直文)は主に焼売(シウマイ)及び、シウマイ弁当の製造、販売をしており、レストラン経営も行っています。2020年度の売上高は178億円という巨大な売り上げを誇る食品会社です。
 崎陽軒は元々、駅構内での物品販売から始まった会社です。1895年(明治28年)に横浜駅(現、桜木町駅)の駅長に就任した久保久行氏は、鉄道界の名物男で気性のさっぱりした親分肌の人物だったそうです。しかし、退職後の生活に無頓着だったため、知人の高橋善一氏が大阪駅構内で駅売りを営んでいた松塚孫三郎氏と相談し、国鉄に働きかけて久保氏に横浜駅構内で営業する許可を得たそうです。久保久行氏が国鉄を退職した1908年(明治41年)4月、久保氏の妻、久保コト(旧姓、野並)の名義で事業を始めたそうです。当時は牛乳やサイダーなどの飲み物、餅、寿司などを売っていたそうです。
 久保久行氏は長崎生まれだそうです。長崎は江戸時代、唯一の開港地であり、中国の商人から「太陽の当たる岬」という意味で「崎陽」、または「崎陽道」と呼ばれていたそうです。久保久行氏は、この故事にならい、自分の店を「崎陽軒」と名付けたようです。しかし、最初の頃は「さきようけん」と間違って呼ばれることの方が多かったようです。
 大正時代に入ると鉄道網の整備が進み、初代横浜駅と平沼駅の間に2代目横浜駅を設け、平沼駅を廃止する計画が持ち上がったそうです。その構想によって2代目横浜駅の構内営業をめぐる業者間の争奪戦が行われたそうです。その結果、当時の鉄道院当局は崎陽軒や東洋軒など、3社が共同で匿名組合を結成するなら営業を許可するという妥協案を示したそうです。その結果、崎陽軒、東洋軒、東京電方通信社の3社で「匿名組合 崎陽軒」を設立したそうです。
 2代目横浜駅が開通した1915年(大正4年)8月15日、平沼材木町に営業所を置く「匿名組合崎陽軒」が新たにスタートし、駅弁の販売を開始しました。1915年(大正4年)10月には野並茂吉氏が支配人に就任しました。
 野並茂吉氏は1888年(明治21年)9月20日、栃木県上都賀郡加蘇村(現、鹿沼市加園)で父、渡辺富三(わたなべとみぞう)、母ミツの次男として誕生しました。宇都宮市の和菓子屋で丁稚奉公をしていたものの、1904年(明治37年)に日露戦争が始まると、宇都宮の憲兵隊が募集した「少年志願兵」に応募したものの、規定の17歳に達していないという理由で採用されなかったそうです。ただ、これをきっかけとして和菓子屋を辞め、放浪生活を始めたそうです。
 茂吉氏は翌1905年(明治38年)9月に上京し、東京、文京区本郷でたばこの卸問屋、次いで神田のたばこ店などを転々とし、初めて横浜に出たそうです。横浜での第一歩は商況新聞の発行と電話売買を行う新聞社勤務で、新聞配達から債券のセールスまで行っていたそうです。ここも1年余りしか続かず、タブロイド判500部の「横浜少年新聞」を自力で発行したものの、半年で廃刊してしまったそうです。そこで港湾労働者の群れに身を投じて肉体労働に従事したものの、身体を壊し、結局、長続きしなかったそうです。食事をする金もなくなり、水ばかり飲んでいたため、空腹で行き倒れてしまうこともあったそうです。
 その後、屋台で豆餅の販売、開業医の元で薬剤師見習いなどをやっていたところ、国鉄、平沼駅で弁当や雑貨などを売り、「銀月」という食堂を経営していた片岡銀次郎氏に出会ったそうです。片岡銀次郎氏の下で茂吉氏は印半纏に股引き、足袋に草履を履いて片手にヤカンを持ち、もう一方の手に岡持ちを持って駅のホームを駆ける商売に精を出したそうです。
 しかし片岡銀次郎氏の元を去ることになった茂吉氏は、神戸の東松軒を経て大阪の水了軒に移り、松塚孫三郎氏に巡り会ったそうです。当時、経理を担当していた茂吉氏の手腕を高く評価した松塚孫三郎氏は、東京出張所の次席に栄転させた上、横浜の久保コトさんの婿養子にならないかという話を持ってきてくれたそうです。
 崎陽軒の名義人だった久保コトの旧姓は「野並」で、コトは野並家の一人娘だったそうです。このため彼女が嫁入りした後、野並家を継ぐ者がいなくなっていたそうです。そこで26歳の茂吉氏は1913年(大正2年)12月22日、久保コトの養女、24歳の小川千代と結婚して野並家の再興を担うことになり、野並茂吉となりました。
 1915年(大正4年)10月に野並茂吉氏は匿名組合崎陽軒の支配人に就任し、働き始めます。しかし、当時は調理場に寿司職人が1人しかいなかったため、野並茂吉氏は自分でも卵焼きなどを作りながら鉄道関係の部署に顔を出し、崎陽軒の経営を軌道に乗せるよう努力したそうです。
 しかし1916年(大正5年)9月、調理場の手違いからか、経木を入れた折を寿司折と間違えて販売してしまい、新橋運輸事務所の係官から大目玉を食らったそうです。この不祥事によって「営業停止」になるかもしれないという恐怖を味わった野並茂吉氏は、それ以降、事あるごとにこの失敗談を従業員に話し、構内営業マンの自戒のタネとしたそうです。そして経営基盤の確立を図らないと崎陽軒に明日はないと悟った野並茂吉氏は、経営の現状を総合的に分析し始めたそうです。
 当時の商店経営はほとんど「丼勘定」で経営者の勘や感覚に頼っていた点が多かったようですが、衛生設備や炊飯用具を改良し、駅弁の生産計画を立案し、組合の資本金の充実と蓄積を第一に考えるようになったそうです。特に資本の蓄積に傾注し、従来の利益を上回った分を積立金に回し、設備投資や資本金に充当して崎陽軒の基礎固めを行ったそうです。この方針を実施して1ヶ月後には従来の1.5倍の積立金を生み出し、設備投資や経営の体質改善を始められたそうです。また、弁当の販売員を増やすなど、積極的な販売促進策も始めたそうです。
 当時の月間売上高は約600円で純利益は一割程度だったそうですが、業績が少しずつ上向いていったそうです。そして発展の第2段階として崎陽軒を匿名組合から合名会社に法人化することを考えたそうです。すでに積立金が20万円に達し、設備投資も計画通り進んでいたため、その方針に異議をはさむ出資者はいなかったそうです。
 そして1923年(大正12年)5月15日、10人の出資者を得て資本金20万円の合名会社崎陽軒として法人化し、代表社員に野並茂吉が就任しました。その年、1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が起きました。復興のため、駅頭では牛丼やカレーライスを販売して非常時の旅客供食に努めたそうです。その年の売上高は40万円で、従業員は60名だったそうです。
 その後、弁当や牛丼、カレーライスなども販売するようになり、ビジネスは拡大したものの、横浜駅では駅弁はあまり売れなかったそうです。下り列車では、東海道線の始発駅である東京駅で弁当を買うため、途中駅の横浜では売りにくく、上り列車の場合は終点の東京駅に近すぎるため弁当を買う人が少なかったようです。そこで野並茂吉氏は崎陽軒の将来を考え、久保久行氏の孫、久保健氏とともに横浜名物を作ることを考えたそうです。当時、小田原にはカマボコ、鎌倉にはハムなど、主要な駅にはそれぞれ名物があったそうです。これらの名物は、現在でも販売されています。しかし、横浜には名物がなかったため、名物を作ることで駅弁を買わなくても、「横浜名物」を買ってもらうことを考えたそうです。
 野並茂吉氏と久保健氏は南京街(現在の中華街)を食べ歩き、何かないか探していたそうです。すると、当時、突き出しとして提供されていた「焼売」に着目しました。車内で食べるため、冷めても美味しい焼売を作るため、南京街の点心職人、呉遇孫氏をスカウトしました。そして約1年の試行錯誤の結果、豚肉と干帆立貝柱を混ぜ合わせた、冷めてもおいしい「シウマイ」が完成しました。揺れる車内でも食べやすいように一口サイズにしたそうです。1928年(昭和3年)3月、一折50銭で、御飯を添えないシューマイだけの折り詰め形式(弁当ではない)で「横浜崎陽軒のシウマイ」を売り出しました。
 ここで疑問があります。何故、「焼売」、「シュウマイ」、「シューマイ」ではなく、「シウマイ」なのでしょうか。これは、栃木県出身の野並茂吉氏には「栃木なまり」があり、うまく「シュウマイ」と発音できず、社員が何度、指摘しても「シーマイ」としか言えなかったそうです。ただ、中国の方に聞くと「シィーマイ」とか「シャオマイ」に聞こえる上、カタカナで書き表す際、「シューマイ」の「ー」が棒に見えて分かりにくくなるため「シウマイ」の方が分かり易いなどの考えで、「シウマイ」に統一することにしたようです。
 1934年(昭和9年)には横浜駅構内で弁当やシウマイを販売するほか、新たにレストラン事業を展開することを考え、横浜駅東口の売り場を改造して「中華食堂」を開業しました。その「中華食堂」は1941年(昭和16年)、「株式会社崎陽軒食堂」として独立し、野並茂吉氏が取締役社長に就任しました。1943年(昭和18年)に本格的な中華料理食堂の新築に踏み切ったものの、食堂が完成した頃には食糧事情が悪化しており、戦時色雑炊を作る雑炊食堂になってしまったそうです。さらに1945年(昭和20年)、横浜大空襲によって横浜駅西口の営業所とともに、完成して間もない食堂は灰になってしまったそうです。
 1946年(昭和21年)、株式会社崎陽軒食堂は横浜駅構内食堂の営業許可を受け、「KY食堂」を開店しました。店名は「KIYOKEN YOKOHAMA」のイニシャルに由来しており、和洋定食がメインだったそうです。
 1948年(昭和23年)には「株式会社崎陽軒食堂」と「合名会社崎陽軒」の対等吸収合併によって「株式会社崎陽軒」を設立し、初代社長に野並茂吉氏が就任しました。この頃、戦時下の食料統制が解除され、豚肉のシウマイを製造することが可能になったそうです。当時、シウマイは12個入で40円、御料理弁当と同額だったそうです。
 1950年(昭和25年)には戦後の横浜に明るさを取り戻そうと考え、横浜駅のホーム上に「シウマイ娘」を登場させたそうです。赤い服を着て、タスキをかけ、手籠にシウマイを入れ、「シウマイはいかがですか」と車窓から売り歩く「シウマイ娘」は人気となり、「横浜にシウマイ娘あり」と話題になったそうです。1952年(昭和27年)に毎日新聞に連載された獅子文六の小説「やっさもっさ」に「シウマイ娘」が登場すると、翌1953年(昭和28年)に映画化され、シウマイ娘には桂木洋子、野球選手には佐田啓二という、当時の売れっ子コンビが扮し、「シウマイ娘」が全国に知れ渡るようになり、シウマイの売上も伸びていったそうです。
 横浜名物として定着してきた「シウマイ」をメインにした、横浜ならではの駅弁をつくりたいという思いから、1954年(昭和29年)に「シウマイ弁当」を販売開始しました。駅弁の定番である焼き魚や玉子焼きに加え、横濱蒲鉾と酒悦の福神漬け、崎陽軒のシウマイという名品を揃えた内容で、発売開始から予想以上の売れ行きとなったそうです。現在では1日に約2万3000個も売れているそうで、日本一売れている弁当だそうです。
 また、1955年(昭和30年)にシウマイの箱に入れる醤油入れをガラス製のビンからヒョウタン型の磁器にしたところ、漫画家、横山隆一氏が「目鼻をつけてあげよう」とたくさんの表情を描いてくれたそうです。横山隆一氏によって「ひょうちゃん」と名付けられ、いろは48文字にちなみ48種類の「ひょうちゃん」が誕生したそうです。
 1970年(昭和45年)には横浜市戸塚区原宿の国道1号線沿いに高級中華レストラン「太陽(たいやん)」をオープンしました。これにより、改めてレストラン事業に進出していくことになりました。現在は「太陽」は閉店し、2002年に「戸塚崎陽軒 中国料理 嘉宮」が営業をしています。東洋と西洋の融合から生まれた静かな中庭を持つオシャレな洋館で、館内には広東料理をベースにした中国料理「嘉宮」と南イタリア地方のイタリア料理「イルサッジオ」の2つのレストランがあります。
 1996年(平成8年)には横浜駅東口に「崎陽軒本店」を建てました。1階はシウマイなどを買うことができるお店と、様々な種類の紅茶やケーキ、スコーンで英国式の本格的ティータイムを楽しむことができる喫茶店「アボリータム(THE ARBORETUM)」、2階には中華の京料理といわれる広東料理を中心とした中国料理を提供するレストラン「嘉宮」と、南イタリア、ナポリの伝統郷土料理を提供するレストラン「イルサッジオ」があります。地下1階には中近東のバザールをイメージした異国情緒溢れるビアレストラン「亜利巴"巴"(ありばば)」があるビルで、シウマイだけでなく様々な料理、時間を楽しむことができます。