玉ひで

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更新日:
 2022年5月22日



◎玉ひで(2022年5月22日)
 「玉ひで」は、「親子丼」発祥のお店として紹介されています。「玉ひで」のWeb siteによると、1760年(宝暦10年)、御鷹匠(おたかじょう)として幕府に仕えていた山田鐵右衞門(てつえもん)の父親が始めた軍鶏鍋屋が始めだそうです。また、「御鷹匠」とは、「将軍家の御前にて鶴を切る厳議に由来する格式の高い包丁さばき」だそうです。さらに「家伝の法は、放血せずに〆た鳥を血を見せることなく骨と身に取り分け、肉に手を触れずに薄く切る練達の秘法」だそうです。そして、幕府の財政難によって鷹狩が減少し、山田鐵右衞門の父親は、山田鐵右衞門が誕生したのを機に副業として軍鶏鍋屋を始めたそうです。武士が商いをすることはできないため、山田鐵右衞門を初代として自分は表に出ないで営業を始めたそうです。当初は将軍、大名など、かなり高貴な方の屋敷に出向く出張料理がメインだったそうです。
 この説明、かなり無理があると思います。まず、「御鷹匠」なる「包丁さばき」をする仕事というものは無いと思います。「鷹匠」が「包丁をさばく」など、聞いたことがありません。「鷹匠」とは「幕府で鷹狩りに使う鷹を飼育する職名」ですので、「鷹狩りに使う鷹を飼育、訓練する人、鷹使い」のはずです。「肉に手を触れずに薄く切る練達の秘法」なるものは、平安時代より庖丁師によって執り行われている儀式の「庖丁式(ほうちょうしき)」をイメージしたものだと思われますが、将軍家にそのような儀式はなかったと思います。また、「鷹匠」の上には「鷹匠組頭」がいますので、「鷹匠」自体は実際に鷹を飼育する一番下っ端の役目ですから、「将軍家の御前にて鶴を切る」なんてありえないと思います。さらに「幕府の財政難によって鷹狩が減少し」とありますが、もともと鷹狩自体、徳川家光以降、行われていなかったのではないでしょうか。鷹狩りは生類憐みの令を発した5代将軍、徳川綱吉が廃止しており、復活させ、実際に鷹狩をしたのは8代将軍、徳川吉宗です。徳川吉宗は1716年(正徳6年)に「鷹狩」を復活させ、1716年(享保元年)10月には「御留場」を再指定し、11月には幕府任命の鷹師(鷹匠)を置きました。その組織は2組で、1組の組頭は戸田勝房で、配下に鷹師同心上役2名、見習い3名、鷹師同心33名、もう1組は小栗正が組頭に任命され、その配下に鷹師23名、上役3名、見習い2名、鷹師同心33名、両組合計で120名でした。この2組の鷹部屋で飼育する鷹はそれぞれ50羽、合計100羽だったそうです。吉宗の息子、9代将軍、徳川家重も鷹狩を行っており、1756年(宝暦6年)4月26日には放鷹によって捕まえた鷭(ばん。クイナ科の水鳥。)を加賀藩の第9代藩主、前田重教(まえだしげみち)に贈っています。1760年(宝暦10年)は第10代将軍、徳川家治が将軍に就任した年ですが、徳川家治は鷹を加賀藩の第10代藩主、前田治脩(まえだはるなが)に贈っていますので、鷹匠の仕事は普通にあったはずです。「財政難によって鷹狩が減少し」というのは、おかしな表現だと思います。御鷹匠は100俵高(40石)程度の旗本のはずですので、内職していたとしても不思議はありませんが、生まれたばかりの子供の名義など、当時、何の意味もないことだと思います。名義で商売をする訳ではなく、結局、自分(山田鐵右衞門の父親)が営業をしないといけないのですから、この説明には意味がありません。また、「当初は将軍、大名など、かなり高貴な方の屋敷に出向く出張料理」とのことですが、まず、将軍というのは絶対にありえないことですから、このことばは嘘と断定して良いと思います。また、無名の裏営業をしているような料理人(どこの誰か不明)を大名や高貴な人が屋敷に入れるとは思えません。とても信じられない説明ばかりです。
 「玉ひで」のWeb siteによると、1785年(天明5年)に山田鐵右衞門は「たま」と結婚し、店名がなかった軍鶏鍋屋を「玉鐵」としたそうです。以後、二代目、山田鐵之丞の時代までは大名、一部の顧客などから依頼があった時にだけ料理をふるまうという業態だったそうです。さらに三代目、山田鐵之介の時代、1852年(嘉永5年)に上梓された名物店の番付、「江戸五高昇薫」という書物に鶏料理5店の中に選ばれているそうです。また、不始末があって職を辞し、四代目、山田善次郎とともに軍鶏鍋専門店として専念することになったそうです。また1875年(明治8年)には「東京牛肉・しゃも流行見世」という番付に載っているそうです。本当に鷹匠だったのか、旗本だったのかは不明ですが、明治時代初期には有名なお店になっていたことは確かなようです。
 「玉ひで」の「軍鶏鍋」は軍鶏を家伝の割下でスキヤキ風に煮込んだ料理だそうです。当時、すき焼きと言えば牛肉ではなく、鶏肉を使うのが一般的だったそうです。5代目、山田秀吉の時代、1891年(明治24年)頃、秀吉の妻「とく」が、鳥すきを食べていたお客さんが残った割下で玉子を煮て御飯と一緒に食べているのを見て「親子丼」を考案したそうです。このため「玉ひで」の親子丼は、鶏肉の形状が現在の親子丼で使われている「ぶつ切り」とは異なり、スライスされた「薄切り」だそうです。現在、「玉ひで」では「元祖親子丼」というメニューで食べることができるそうです。
 「玉ひで」では、砂糖や酒を一切使っていない味醂と醤油で作った鶏すきの割り下を使っているそうです。割下がよくしみるように玉子を調理するのがポイントで、玉子に空気を入れるイメージでかき混ぜ、玉子は弱火で自然と膨らむまで待った後、溶いた玉子を再度回しかけ、出汁を吸った玉子と吸っていない玉子の調和を生んでいるそうです。
 また「玉ひで」は、「鶏そぼろ丼」の発祥の店でもあるそうです。親子丼が有名になった後、親子丼を持ち帰りしたいというお客さんのために考案されたのが「鶏そぼろ丼」だそうです。当時は発泡スチロールの容器などがなかったため、折で持ち帰っていたそうですが、汁があふれてしまい、非常に不便だったそうです。そこで親子丼と同じレシピで汁が漏れないように考案されたものが鶏そぼろ丼だそうです。

・玉ひで
 住所:東京都中央区日本橋人形町1-17-10
 TEL:03-3668-7651
 営業時間:11:30〜13:30、17:00〜21:30
 定休日:月曜日の夜
 駐車場:無
 アクセス:地下鉄、日比谷線、人形町駅ら徒歩約2分
 カード:コース料理のみ使用可
 席数:100席
 オープン日:1760年(宝暦10年)