庄や、日本海庄や

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更新日:
 2022年4月17日



◎庄や、日本海庄や(2022年4月17日)

 「庄や」、「日本海庄や」は、東京都大田区に本社がある株式会社大庄(だいしょう、創業:1968年4月2日、設立:1971年11月2日、資本金:1億円、代表取締役社長:平了寿(たいらかずとし))が運営している居酒屋チェーン店です。株式会社大庄は「日本海庄や」のほか、「庄や」、「やるき茶屋」、「大庄水産」、「築地日本海」、「CAFE &BAKERY MIYABI」、「会員制個室懐石 銀座 結 中條」などを運営しており、2021年8月の決算では連結売上が354億2,700万円、単体でも259億5,500万円の売上で、従業員数1,638名、直営店は366店舗、フランチャイズは70店舗という超巨大企業です。
 大庄の創業者、平辰(たいらたつ)氏は1940年(昭和15年)、新潟県佐渡市生まれで、生家はニシン樽のタガを作って北海道の漁師に売る竹細工屋だったそうです。母の実家は網元で、子供の頃から佐渡近海の新鮮な魚を食べて育ったそうです。平辰氏は新潟県立両津高校(現在は閉校)卒業すると上京し、新聞配達などをしながら日大理工学部に進学しました。
 しかし1960年(昭和35年)、大学を中退し、日立製作所に入社しました。配属先のIBM課はコンピュータを日本で最初に扱った部署で、プログラミングなどもしていたそうです。残業が続くハードな仕事だったせいか、1962年に退職し、滅菌割り箸の製造、販売という事業を興しました。そのきっかけは、残業の後に食べに行っていた渋谷の台湾料理店だそうです。味は申し分なかったものの、箸立ての中に虫の死骸が入っているなど、非常に汚かったそうです。そこで、何とかきれいな箸を使えるようにしたいという思いから、自分で事業を興すことにしたそうです。
 割り箸を再生ビニールで包んでシールして、高周波で滅菌したので「滅菌箸」と名付け、飲食店に販売したそうですが、結構、売れたそうです。ところが開発を頼んだ自称博士が、実は前科4犯の詐欺師だったため、現金がなくなるだけでなく、手形まで持たされていたそうです。ただ、製袋機があったので、これを売って手形を清算した結果、手元に40万円ぐらい残ったそうです。
 その後、浪人生活を送っていた平辰氏は、東京、新宿歌舞伎町で喫茶店を営んでいた義理の兄から「新しい店をやりたいので手伝ってくれないか」と言われたそうです。義兄はフラフラしている義弟を見かねて声をかけたそうですが、当時、外食業は水商売という意識が大勢を占めていて、周囲からは反対されたそうです。
 しかし平辰氏は外食業が儲かることは滅菌箸をやったことで分かっていたそうです。何故なら、デパートの食堂には何千膳という箸を納めていたので、1日1000膳を消費するなら、1000人の来客があることになり、それに客単価を掛ければ月の売上げが分かります。どのくらい儲かるのかを聞き出したところ、最低でも60%の粗利があると知ったそうです。箸1膳を売って何銭何十銭という商売をしていたことと比べると、こんなに粗利のある商売は他にないと思ったそうです。そこで、レストランを手伝ってくれと言われた時、周りの反対は気にならなかったそうです。
 当時、世田谷に「ロッシュ」という洋食レストランがあり、義兄はその中華料理版をやりたいと考えていたそうです。しかし平辰氏は、渋谷の台湾料理店に通っていたので、台湾人を使うのは難しいと思っていたので、洋食でいこうと義兄を説得したそうです。
 平辰氏は雇われ店長として、人集めもしました。ただ、コックの手配に伝手がなかったため、学生時代にアルバイトをしていた「東宝食堂」の常務を頼ったそうです。そこで紹介してもらったのが「精養軒」の秋山徳蔵さんだそうです。秋山さんのところに行くと、今度は「帝国ホテル」の村上信夫さんを紹介してくれたそうです。そこで村上さんを訪ねたら、フランスから帰ってきたばかりの実カのあるシェフが4人の部下を引き連れて来てくれることになったそうです。
 こうして世田谷区用賀にドライブインレストラン「ファンタジー」を開店すると、たちまちロッシュに比肩する繁盛店になったそうです。建坪70坪で、残りは駐車場にしたものの車が収容し切れず、国道246号には不法駐車が連なったそうです。そのため、警察のやっかいになることも多かったそうです。最盛期には日商150万円を弾き出し、レジを締めて朝まで計算しても金額が合わないこともあったそうです。
 お店では、義兄の次女も働いていたそうですが、彼女が東京、上野のアメヤ横丁から仕入れてきた輸入菓子は、1日3万円近く売れたそうです。その後、義兄の次女が「ファンタジー」のお客さんの一人と結婚することになり、彼を店長にすることにして平辰氏は3年で「ファンタジー」を辞めたそうです。
 ファンタジーを退職した平辰氏は、自らの店を持つ準備に入ったそうです。考えていたのは故郷の味を提供する割烹スタイルの居酒屋で、店名も「佐渡」と決めていたそうです。1967年(昭和42年)、28歳の時、東京、赤坂のアメリカ大使館前の一等地に和食店を開く予定だったそうです。手元に残った資金40万円をはたいて店を借りたため、内装に回す費用がなかったそうです。そこで工務店に「開業後に月賦で支払いしたい」と頼んだところ、「1年契約なら」という条件付きで施工してくれたそうです。ところが店が完成に近付いてくると、そのぶん不安ばかりが募ってきたそうです。魚の仕入れの伝手はないし、料理のことも全く分からない上、運転資金もないなど不安材料しかなく、家賃は月20万円と決まっており、眠れなくなるぐらいに悩んだそうです。ある時、夢遊病者のようにフラフラ歩き、気がつくと不動産屋の前に立っていたそうです。そこで話を聞いてくれた不動産屋さんが相談に乗ってくれ、買い手の希望通りに内装を仕上げるというオプションを付けて店の権利を売り出してくれたそうです。これが680万円で売れたため、工務店に内装の工賃を支払っても280万円も手元に残ったそうです。
 そこで平辰氏は、これを元手に1968年(昭和43年)、東京都大田区池上本門寺に6坪の土地付き2階建ての店舗兼住居を購入し、焼き鳥店「若鳥焼 とき」をオープンしました。1階はカウンターとテーブル2卓、2階は4畳半2間の座敷席というお店でした。焼とりを選んだのは、調理技術をさほど必要としないと考えたからだそうです。鳥のさばき方や基本的な調理については、3週間ほど焼とり店で修業して学んだそうです。平辰氏は、店を開いたら、お客さんがいっぱい来てくれるものだと勝手に思っていたそうですが、現実はそんなに甘くなく、全くお客さんが来なかったそうです。
 お店はスナックやバーが並ぶ寂れた路地の一番奥だったため、その辺りの店で飲んだ人達が、帰りにおしっこするので、路地がおしっこ臭かったそうです。売り上げは1日平均2000〜3000円しかなく、営業すればするほど赤字が増えたそうです。鶏肉はアシが早いため、当時、売れ残った肉で作った鶏メシばかり食べていたそうです。
 チラシを配ったりしたものの、お客は増えず、どうすれば良いのか分からなくなってしまったそうです。そこで平辰氏は、仕込みが終わると近くの銭湯に行って、入っている人の背中を片っ端から流して、「そこの焼き鳥屋です。今度ぜひ店に来てください。」って宣伝したそうです。また、近所の掃除もしたそうです。道路に沿って、ずーっと掃除をしながら、あいさつして回ったそうです。すると銭湯で知り合った老人が孫を連れて焼とりをお土産に買っていってくれたり、近所の店から出前の注文が入るようになったり、少しずつお客さんが増えていったそうです。
 平辰氏は、お客さんが来てくれたことに満足せず、一人来てくれたら、この人をどうやってもてなすか、そのことを一生懸命、考えたそうです。靴を磨いたり、酔っ払ったお客さんを自転車の後ろに乗せて家まで送ったりもしたそうです。すると、そのお客さんが翌日には家族連れで来てくれたりしたそうです。平辰氏は、「お客さんに貸しを作る」ことが道だと考え、徹底して貸しを作るようにしたそうです。これが、後に庄屋の「はい!よろこんで!」という挨拶につながったそうです。
 また、係長かなと思ったら「課長さん」、課長には「部長さん」と、ワンランク上の役職で呼ぶようにしたそうです。呼ばれたお客さんを気持ちよくさせていたら、本当に出世する人もいたそうです。このような接客術がお客さんの心をつかみ、1年後には連日、満席の店になったそうです。
 平辰氏は、開店1ヶ月後くらいから銀行に1000円の日掛け貯金を始めたそうです。売り上げが2000円の日も歯を食いしばって積んだそうです。無理してでも貯金を殖やしていかないと売れ残った鳥を食べる日々から抜けられないと考えたそうです。徐々に掛け金を増やし、最終的には1万円まで金額を増やし、3年後には300万円を超える金額になったそうです。そこで1971年(昭和46年)11月、株式会社朱鷺を資本金200万円で設立し、代表取締役社長となりました。ちなみに株式会社朱鷺は1989年9月、株式会社大庄に商号変更しています。
 また1971年(昭和46年)、東京、JR、水道橋駅近くの千代田区三崎町に36坪の「太平山酒蔵」を出店しました。この店は魚料理をメインにしたそうです。平辰氏は佐渡で新鮮な魚を食べて育ったので、お客さんにも美味しくて身体にいい魚をたくさん食べてもらいたいと考えたそうです。看板メニューの刺身の盛り込みは、10種類の刺身を3000円という破格の安値で出したため、大評判になったそうです。
 また平辰氏は築地市場の隅に積んであったアサリに目をつけたそうです。砂を吐かせないといけないし、手間がかかるから売れなかったそうです。平辰氏は、これをタダ同然で買ってきて、板前と一緒にいろんな料理を考えたそうです。この時、思いついたのがアサリバターだそうです。美味しくて身体にいいと好評の料理になったそうです。現在では、日本中に広まっている一般的な料理になっています。
 しかし店は繁盛したものの、板前さんが辞めるという問題が起きたそうです。ドンドン注文が入るから、早く作ってくれと頼むと、「俺はタコじゃねえ。手は2本しかねえよ!と文句を言い、挙句には「この店は合わない。上がらせてもらいます。」と、営業中の忙しい最中に包丁を片付けて帰ってしまったそうです。当時、板前は辞めてもすぐに調理師会が次の板場を紹介してくれたため、生活には困らなかったそうです。もともと、色々な板場で経験を積んだ方が良いという考えが調理師の中にあったため、きつい仕事を我慢する必要はないという意識が蔓延していたようです。せっかく調理師会から板前を派遣してもらっても、すぐ辞めてしまうため、当時、店のピンク電話の横に10円玉を積み上げて、調理師会に片っ端から電話して、人の手配をするのが平辰氏の日課になっていたそうです。
 そんな中、平辰氏は1973年(昭和48年)3月に東京都千代田区、太平山酒蔵の近くに「かまどの煙、鍋の湯気」をキャッチフレーズにした「庄や本家店」を開業しました。このお店は郷土、佐渡の「庄屋」をイメージした大衆割烹のお店です。創業期の庄やの設計思想は土間、囲炉裏、居間、座敷の4つに区切った四ツ目住宅が基本だったそうです。大工さんのルートを活用して、佐渡や地方で解体された庄屋など、旧家の木材を集めたそうです。
 「庄や本家店」も行列ができるほど大繁盛したそうです。そこで平辰氏は直ぐそばに物件を取得し、1973年12月には「庄や分家店」をオープンさせました。合計3店舗を運営する状況になったものの、板前が定着しないという問題は相変わらずだったそうです。当時、平辰氏は、人は何のために働くのかという発想がなく、お金さえ出せば人は働くと単純に思い込んでいたそうです。儲けたお金は次の店に注ぎ込み、もっと売上げを上げて給料を増やせばいいと思っていたそうです。そこで、板前一人ひとりと話し合うと、8割程度の板前が、将来は独立して自分の店を持ちたいという独立開業を望んでいたそうです。そこで平辰氏は希望者を独立させるために「独立制度」を整備し、会社の幹部として残る者たちには「所得倍増制度」、「持店制度」(ダブルインカム制度)など、やる気を喚起する制度を作り、「100店舗構想」を打ち出したそうです。
 1975年(昭和50年)には独立制度適用の第1号店「庄や 春日店」、第2号店「庄や ひだ店」、第3号店「庄や 西荻窪店」、第4号店「庄や 神谷町店」を開店しました。4店舗とも平辰氏が個人保証して銀行から借り入れたそうです。ただ、3号店までは平辰氏の親戚、友人などで、第4号店の「庄や 神谷町店」のオーナーだけが新聞の募集広告に応募してきた人物だったそうです。ただ、この第4号店の開店を機に「神谷町のオーナーに続け!」と、社員たちの間に独立開業の熱気が渦巻いたそうです。
 しかし、問題は資金力でした。第4号店までは平辰氏の個人保証で銀行融資を受けられたものの、個人保証では限度に達していました。そんな頃、平辰氏は佐渡の実家で世話になっていた農業協同組合の仕組みに目を付け、東京都中小企業団体中央会に相談し、独立させた4人のオーナーと平辰氏が会員となって1981年(昭和56年)に「協同組合庄や和食グループ」を設立し、平辰氏が理事長に就きました。合計5人のオーナー社長が個人保証することで商工中金から低利融資を受け、独立希望者に無担保で貸し付けたそうです。当初は1000万円、やがて2000万円、3000万円と増額され、1990年(平成2年)には5000万円まで増額されたそうです。仮に独立開業者の経営がうまくいかなくなった時は、店舗は組合員の誰かが引き受けて運営するというシステムで支援することにしたそうです。この独立制度が整備されると、「庄や」グループの店舗数は拡大していきました。
 「庄や本家店」は、後に庄や第1号店となり、2022年現在では「庄や 水道橋店」になっています。また、「日本海庄や」は1998年2月(平成10年)に全国展開の足がかりとして、長崎県長崎市銅座町に「日本海庄や 長崎銅座店」をオープンしたのが最初のようです。ただし、2022年現在、既に閉店しているようです。







・お通し



・鮪カンパチ刺身盛合せ



・枝豆



・若筍煮



・しらすとみょうがのオニオンスライス



・やめられないとまらないポテトフライ



・蟹クリームコロッケ



・牛たん 漬け焼き



・九条葱厚焼き玉子



・鶏の唐揚げ



・師匠の唐揚げ



・白海老唐揚げ



・細巻き寿司(ねぎとろ、鉄火、梅キュー)



・板わさ



・庄や 水道橋店
 住所:東京都千代田区神田三崎町2-19-7 大庄水道橋ビル1F、B1F
 TEL:03-6380-9311
 営業時間:11:30〜14:00、17:00〜23:00
 定休日:無
 駐車場:無
 アクセス:JR、水道橋駅から徒歩約5分
 カード:可(VISA、Master、Diners、JCB、AMEX)
 席数:62席
 オープン日:2016年9月5日