中村屋

このサイトは、日本の地域の情報についてまとめました。

  メニュー

TOPページ 

観光地 

地域情報 

日本のホテル 

日本のニュース 

日本について 

美味しいもの 

海外事情 

海外のホテル 

食品の話 

雑学 

用語辞典 

リンク 


更新日:
 2015年2月5日



◎中村屋(2020年12月20日)
 「中村屋(なかむらや)」は、一般的には「新宿中村屋」として知られています。株式会社中村屋(なかむらや)という会社で、東京都新宿区に本社を置く食品メーカーです。和菓子、洋菓子の他、菓子パン、中華まん、レトルトや缶詰のカレーなどを製造、販売しているほか、デパートの地下やショッピングセンターで菓子店(直営店15店)、レストラン(直営店10店)などを運営しています。クリームパン、中華まん、月餅、水ようかんなどを最初に作ったのが中村屋だそうです。
 中村屋は、1901年(明治34年)に、相馬愛蔵と良(筆名、黒光)夫妻が、東京、本郷の東京大学正門前のパン屋「中村屋」を買い取ってパン屋を立ち上げたことが始まりです。
 相馬愛蔵氏は1870年(明治3年)に長野県安曇野市穂高に生まれ、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、北海道へ渡り、札幌農学校で養蚕を学んだそうです。そして養蚕業について研究を重ね、「蚕種製造論」という本を出版したところ、全国各地から講演等の依頼が入り、各地を訪問、公園をしたり、蚕種を配布したりしていたそうです。ある時、1891年(明治24年)の濃尾大震災で孤児となった子供を収容するために本郷定次郎夫妻が全財産を投じて経営していた孤児院が栃木県那須野が原にあり、そこで養蚕をしたいという申し出があり、自分の製造した蚕種を寄贈し、製造方法を伝えたところ、非常に良い成果が出たとのことで、本郷定次郎氏がわざわざ信州まで御礼に訪問したそうです。相馬愛蔵氏は、本郷定次郎氏の訪問に感動し、その冬の閑散期に本郷定次郎氏の孤児院を訪問したそうです。そこで、食べたい盛りの子供たちが薄い御粥を2杯しか食べられない現実を見せられ、この孤児院のために義援金を集めることを考え、仙台に向かったそうです。当時、仙台にはキリスト教会の偉人、押川方義氏がおり、面識はなかったものの頼って訪問したそうです。相馬愛蔵氏が仙台に入った日は日曜日で、丁度、仙台教会で押川氏の説教があり、そこで孤児院の窮状を訴えたところ、大口の寄付の申し出を受けたそうです。この寄付金募集がきっかけとなり、押川氏をはじめ、その教会の人々と親しくなり、1897年(明治30年)に仙台藩の漢学者、星雄記氏の孫の良さんと結婚(愛蔵28歳、良22歳の時)しました。良さんは1875年(明治8年)、宮城県仙台市北四番町に生まれ、1891年(明治24年)に仙台の宮城女学校に入学したものの、翌1892年(明治25年)にストライキのため自主退学し、上京して横浜のフェリス和英女学校に入学しました。その後、1895年(明治28年)に麹町の明治女学校に転学しています。
 結婚後、夫婦は長野、安曇野で生活を始めましたが、良さんが田舎暮らしに馴染めず健康を害し、良さんの病気療養のため、東京に住むことを決めたそうです。そこで1901年(明治34年)9月に上京し、駒込千駄木林町に移り住んだそうです。そこで東京に永住する覚悟を決め、生活費を稼ぐため、2人で商売を始める事を考えたそうです。
 しかし、二人とも商売などしたことがないことから、当然、先人がいる業界では立ち行かなくなると考え、西洋にあっても日本には無い商売であれば、誰がやっても新しい事業であることから、何とかなるのではないかと考えたそうです。そこで、西洋のコーヒー店をしようと考えたそうです。
 しかし、本郷5丁目の青木堂前に淀見軒というミルク・ホールができてしまったため、これを諦め、次に目をつけたのが「パン」だったそうです。その頃、パンは在留の外国人だけが食べていたものから徐々に広まり、インテリ層の生活に入り込みつつあったそうです。しかし、これが一時のブームで終わるのか、日本人に食事として受け入れられるかは分からなかったため、3食のうち2食をパンにして自ら試したところ、副食物として砂糖、胡麻汁、ジャム等を用いることで全く不便を感じなかったどころか、煮炊きをする必要がない手軽さは突然の来客にも対応でき、非常に便利だと感じたそうです。そして自らが3ヶ月ほど試した結果から、パンには将来性があると判断し、12月下旬、萬朝報の3行広告に「パン店譲り受けたし」と出したところ、その日のうちに数ヶ所から「買ってくれ」という申し出があったそうです。
 その中に近所の本郷、春木町、東大正門前の中村屋があったのには驚いたそうです。というのも、この3ヶ月間、夫妻は中村屋のパンを買って食べていたのであり、しかも場所柄、なかなか繁盛していたので、とても信じられなかったそうです。話をしてみると、何と商品、籠、製造道具、配達小車、職人、小僧、女中と一切を居抜きで700円で譲るという内容だったそうです。そこで早速、同郷の友人、望月幸一氏に資金を用立ててもらい、首尾よく交渉が成立し、1901年(明治34年)12月30日にパン屋「中村屋」を開店しました。
 夫婦ともに学校出であったことから「書生パン屋」と呼ばれて新聞に載ったりしたそうです。徐々に学生に馴染み客が増えていき、一高の茶話会の菓子はたいてい中村屋に注文が入るようになったそうです。当時、かなり人気があったパン屋さんだったようです。
 1904年(明治37年)には、クリームパンを考案し、販売したそうです。相馬愛蔵氏は、御得意さんに対し、これはと喜んでもらえるような新製品を作り出したいと考えていたそうです。そんなある日、初めてシュークリームを食べ、その美味しさに驚いたそうです。そしてクリームを餡パンの餡の代りに用いたら、栄養価はもちろん、新鮮な風味を加えて、餡パソよりは一段上がったものになると考えたそうです。そこで、早速、作って店に出すと非常に好評だったそうです。ただし、中村屋が売り出したクリームパンは切れ目のない半円形で、分度器のような形だったそうです。また、この時、同時にジャムが入っていた当時のワッフル(洋菓子)にクリームを入れ、「クリームワッフル」を開発、販売しています。
 1907年(明治40年)、店の規模を拡大するため新しい店を出す所を探していたところ、将来の発展の上から市内電車の終点以外に適地はないという判断で新宿(当時の終点)に眼をつけたのだそうです。丁度、新宿で二間間口、3軒続きの新築貸家が出来かかっていたので、その2戸分を家賃28円で借り受け、ただちに支店を開店する準備をしたそうです。
 その後、1909年(明治42年)9月に2軒隣の土地を購入し、現在の場所に移転し、これを本店としました。同時に和菓子の販売も始めました。1920年(大正9年)には洋菓子の販売を開始し、1923年(大正12年)4月1日に株式会社に改組し、商号を株式会社中村屋としました。
 1918年(大正7年)に長女の俊子がインドからきていたインド独立運動家であるラス・ビハリ・ボースと結婚をしたことから、ボースから米(白目米)や鳥(軍鶏)にこだわった本格的なカリーの調理法を学び、1927年(昭和2年)6月12日に喫茶部(現在のレストラン)を開設し、同時に当時の日本では珍しい純インド式カリーを販売しました。
 当時、日本にはカレーが入っており、既に一般化していたようですが、ヨーロッパ経由で入ってきたため、小麦粉を使った欧風の作り方によるカレーしかありませんでした。これは、インドの人からしたら美味しくなかったため、本当の美味しい祖国、インドのカレーを日本に伝えたいと考えたようです。ボースが作った最初のカレーは、本場、インドと同じくインディカ米を使っていたそうですが、日本人に合うようにジャポニカ米のようにモチモチ感がある白目米に変えたそうです。
 中村屋では、英語を話せたボースがカレーのことを「CURRY(カリー)」と発音していたことから、そのまま「カリー」という商品名にしたそうです。また、中村屋では発売開始日の6月12日を「恋と革命のインドカリーの日」と定めています。
 また、同じ1927年(昭和2年)には天下一品「支那饅頭」という名称で中華まんを販売しています。当時、肉入り(いわゆる肉まん)が1個6銭、餡入り(あんまん)が1個4銭だったそうです。これは、1925年(大正14年)に相馬夫妻が中国を旅行した際、初めて「包子(パオズ)」というものを食べたそうです。この時食べた包子は中国人向けの味付けで、夫妻にとっては油っぽくてしつこく、決して美味しいと思わなかったそうです。しかし、これを日本人好みのあっさりとした味付けにすれば売れると確信し、日本に帰国後、研究を重ね、1927年(昭和2年)に発売に至ったそうです。それまで、中国料理店でしか食べることができなかった中華まんを広く知らしめ、普及させたのは中村屋だということです。
 1925年(大正14年)に相馬夫妻が中国を旅行したのは、新宿に百貨店ができたことが原因だそうです。百貨店ができたことで打撃を受けたことから、新しい商品の開発に必要性を感じ、中国旅行で新商品のヒントを得ようと考えたようです。
 中国旅行で生まれた商品は中華まんだけでなく、月餅もあります。月餅は中国のお菓子で、陰暦8月15日の中秋節の時期に中国国内では大々的に販売され、友人や知人への贈り物として広く販売されていました。中国旅行の際、日本人のラマ僧に会って、中国で8月15日の夜に「月餅」と称する菓子をお月様に供えると共に、親しい人に贈答するという風習を聞き、この菓子を日本へのお土産にしようと決めたそうです。しかし、持ち帰った月餅は日本人の口に合わなかったため、中国の月餅から、和菓子の月餅を作るべく改良を重ね、1927年(昭和2年)に販売を始めました。当初、中国の風習にちなんで8月の1ヶ月間だけの限定販売だったそうですが、月餅の人気も増えるにつれ、1年を通して販売するようになったそうです。
 また、1927年(昭和2年)6月12日に喫茶部を開設した際、純印度式カリーと一緒に発売された料理にロシアの家庭料理であるボルシチもあります。ボルシチはウクライナ伝承の家庭料理で、言うなれば牛肉と野菜のスープです。レシピは町の数ほどもあり、ウクライナ風、モスクワ風、ポーランド風、コープ風などがあり、ビーツという野菜で赤みを出しています。相馬夫妻はウクライナ生まれのワシリー・エロシェンコという盲目の詩人の生活の面倒を見ており、彼が教えたレシピでボルシチを作ったようです。ただし、中村屋ではビートの代わりにトマトを用いて赤い色を出しています。さらにエロシェンコが着用していたロシアの民族服、ルバシカの機能性が良いことから。1921年(大正10年)に店員の制服として採用したそうです。
 中村屋は、1957年(昭和32年)3月14日に東京証券取引所に上場しています。2011年(平成23年)10月には本店の建替え工事のために休業し、翌11月から隣接する新宿高野本店内に仮店舗を開設し営業を再開し、2014年(平成26年)10月、本店はリニューアルオープンしています。





・中村屋純インド式カリー









・中村屋 Granna Bonna Manna 
 住所:東京都新宿区新宿3丁目26番13号
 営業時間:10:00〜20:30
 定休日:1月1日
 駐車場:無
 アクセス::JR、新宿駅から徒歩約3分
 カード:可(JCB、AMEX、Diners)
 席数:120席
 オープン日:1901年(明治34年)12月30日