くるまやラーメン

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更新日:
 2020年12月30日



◎くるまやラーメン(2020年12月20日)
 「くるまやラーメン」は関東を中心に、北は北海道から南は愛知県までと、主に東日本を中心にFCと合わせて152店舗(2020年10月末、直営店:34、FC店:118))を展開しているラーメンのチェーン店です。現在は、東京都足立区綾瀬に本社を置く株式会社くるまやラーメン(創業:1968年、資本金:1,000万円、代表取締役:大西宏禧)が運営しています。
 東京足立区で大型トラックの運転をしていた草野光男氏が、1968年(昭和43年)に当時の国鉄、綾瀬駅前に開業した屋台の立ち食い蕎麦屋さんが、その始まりです。当時はモーターリゼーションのうねりが日本じゅうを席巻し始めた頃だったので、草野光男氏が始めた蕎麦屋はたちまち繁盛したそうです。これに自信を深めた草野光男氏は店を知人に譲り、中華料理の修行に入ったそうです。草野光男氏は、たった半月でメニューをマスターし、日光街道沿いに車のバンを改造したラーメン店を開いたそうです。さらに繁盛すると、観光バスを改造して店を作りました。これが1970年、足立区平野町の国道4号沿いだそうです。このお店が、くるまやラーメンのルーツとされています。車でラーメン屋を始めたことから、「くるまやラーメン」と命名したそうです。
 1972年にフランチャイズ1号店を開くと、その後は順調に店舗数を増やしていきました。1975年7月には株式会社栄商事と会社組織化し、フランチャイズ中心のチェーン展開を広げていきました。1991年には綾瀬駅前のビル内に本社機能を移転し、この頃から北海道、名古屋地区を中心に積極的に直営店舗を出店していきました。同時に、「両国」という店舗名のちゃんこ料理の大型店も出店を加速していきました。
 1990年代初めまではFC店中心のチェーン展開をしており、出店数は毎年、平均20店ほどだったそうです。ところが店舗数が300店近くだった1994年、草野光男氏は出店戦略をがらりと変えたそうです。FC出店をやめ、直営店だけで毎年100店前後を出店するハイペースの拡大戦略を打ち出したのだそうです。さらに直営でロードサイドちゃんこ料理店や中華レストランなども始めたそうです。
 草野光男氏の実弟で、栄商事の創業当時のメンバーである草野秀雄氏(現、株式会社秀穂′(しゅうすい)の代表取締役)によると、1990年よりもかなり前に草野光男氏の人柄が変わっていたそうです。創業当時は、あるラーメン店から教えてもらった味噌ラーメンが人気を集め、「作り方を教えてくれ」と集まった人たちが増え、自然発生的にFCチェーンが形成されていったそうです。当時は、エネルギッシュにFC店の支援に走り回っていたそうですが、FC店が50店、100店と増えていくと「くるまや」と言う看板だけでFC加盟希望者が集まってくるようになり、商売に対する前向きな姿勢が失われ、商品開発などは弟の秀雄氏に任せ切りとなっていったそうです。
 秀雄氏は、この頃、新業態の開発などを光男氏に提案したそうですが、「食材をFC店に供給するだけで経営が安定しているのだから新業態は必要ない。」と拒否されたそうです。このような姿勢、方針の違いが元となり、1982年、秀雄氏は栄商事を退社したそうです。
 さらにその2年後の1984年には、草野光男氏を補佐していた専務とも対立し、専務も会社を去ったそうです。こうして会社設立から、たった9年で設立の仲間2人が離れ、草野光男氏に意見を言える人間がいなくなり、独裁と暴走が始まったようです。
 関係者の話では、「ライバルの動きに刺激されたためではないか」とのことですが、理解できません。確かに1990年代には、ホッコク(札幌ラーメンどさん子、1990年2月に株式を店頭公開)や、北陸を中心に展開していたハチバン(1993年7月に株式を店頭公開)など、栄商事と同時期に創業したラーメン店が株式の店頭公開(現在のジャスダック)を果たしています。ただ、それと自社の状況は関係ないと思います。
 この頃、草野光男氏は「1999年に1000店」という強気の目標を掲げ、突っ走り始めたそうです。しかもFC店ではなく、直営店での急拡大を目指したようです。これにはFC店の離脱という問題があったようです。
 発端は、1991年に創業時代から取引をしていた製麺業者と10人のFCオーナーが結託して「くるまや」を脱退し、共同出資で新しい会社、株式会社ミツバ・ニッコウを設立したことです。この時、脱退したFC店は優良店が多かったため、打撃が大きかったようです。これ以降、FCを脱退するオーナーが増え、1991年3月に350店あったFC店が、一気に276店まで減ったそうです。
 ミツバ・ニッコウ設立に参加した元オーナーの1人によると、「客が飽きないようにするための新品投入を求めても、本部はきちんと対応してくれなかった。逆に本部からの提案は、もう1店出せと言う拡大の話ばかりで、このままFC加盟して良いのか疑問に思った。」とのことです。
 草野光男氏もFCオーナーの離反に対し、説得にあたったようですが、離れた心を引き戻す事は出来なかったようです。その結果、草野光男氏は店舗を増やすことに消極的なFCに頼らず、自分の意のままに出店できる直営店での拡大に突っ走ったようです。しかし、その拡大方法にも疑問が残ります。
 1994年以降に出した直営店は、地主に店舗を建設してもらって入店するというテナント方式をとっていたそうです。茨城県のある地主は「毎月賃料65万円の15年契約を掲示してきた。月商800万円と言うのを前提にした計算だった」とのことです。ところが、開店してみると「実際には月商は300万〜400万程度にしかならなかった」そうです。同業者からは「綿密な分析をした上での展開とはとても思えなかった」と言っていたそうです。
 当時、直営店の新規出店場所は、他のラーメン店が既に出店しているところを狙い打ちしていたそうです。この戦略自体は間違ってはいないと考えられます。しかし、その具体策がお粗末なものだったそうです。他社との違いを出すために始めたのは「低価格路線」だったそうです。1994年、直営店では麺類(550円〜950円)を注文した客にはライス(150円)と餃子(300円)を無料にするサービスを始めました。この無料サービスで売上高が20%近く伸びると考えていたそうですが、実際に集客に結びついたのは最初だけだったそうです。
 また、当時の「くるまや」はセントラルキッチンを持っていませんでした。麺は製麺業者に生産委託し、スープは店内で作る仕組みでしたが、売りは豚骨、鳥ガラなどを煮込んだスープでした。しかし、急膨張したため人材が不足し、新店の出店時には現地採用した新入社員を1ヶ月研修しただけで店長に据えるという無謀な「促成栽培」が常態化していたそうです。
 これでは売りとなるスープの味は守れず、また店を指導するスーパーバイザーの数も足りず、新設する直営店は「くるまや」本来の味を維持できなくなり、客が離れるという悪循環に陥っていったようです。前出の地主の話では「開店して2年間、スーパーバイザーは1度も来なかった」そうです。急拡大を支える体制が不足しており、明らかに問題だらけなのに、何故、草野光男氏は、そこまで拡大にこだわったのでしょうか。離反していったFC店の話を聞いていたなら、対策ができたはずなのに、理解に苦しむことだらけです。
 その結果、1997年5月26日に栄商事は会社更生法を申請し、事実上倒産しました。負債総額は約196億円で、1997年3月時点で直営、FC店合わせて530店だったそうです。(1996年3月期で直営店243、FC店290、合計533店でした。)後の保全管理人の説明では、直営店約260店(1997年2月末時点)のうち2/3が赤字で、これが致命傷だったそうです。会社全体では、過去1年間は毎月平均1億2,000万円の赤字だったそうです。
 その後、不採算の直営店舗を200店舗前後閉店し、直営約70店舗、フランチャイズ店舗約200店舗の体制とし、更生会社くるまやラーメンとして営業を継続し、徐々に業績を回復させ、2002年に更生計画が完了しました。
 現在、直営店舗は全食材が本部供給の統一品ですが、フランチャイズ店舗は麺と味噌ラーメンの味噌、くるまや特製油(落花生油)が利用必須の食材で、その他は各店舗の裁量に任されているそうです。フランチャイズ店ではスープの取り方も各店舗で違う場合があるようです。公式ウェブサイトでは、ラーメンのランキング発表を行っており、常に「味噌ラーメン」が1位だそうです。



・味噌チャーシュー



・ネギ味噌ラーメン





・ネギ味噌チャーシューメン



・キムチ味噌ラーメン



・餃子



・温たまライス



・くるまやラーメン 青井店
 住所:東京都足立区青井5-5-15
 TEL:03-3849-0329
 営業時間:11:00〜翌2:00
 定休日:火曜日、12月31日、1月1日
 駐車場:有
 アクセス:JR、香西駅から徒歩約10分
 カード:可(VISA、Master、JCB)
 席数:47席