ガスト

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更新日:
 2023年5月20日



◎ガスト(2020年12月20日)
 「ガスト」は、株式会社すかいらーくレストランツ(本社:東京都武蔵野市、設立:2015年9月、資本金:1,000万円、代表者:大川原利明)が運営しているファミリーレストランです。すかいらーくレストランツは、株式会社すかいらーくホールディングス(本社:東京都武蔵野市、設立:1962年4月4日、資本金:35億1,100万円、代表者:谷真)の100%子会社です。
 すかいらーくは、もともと1962年4月4日に横川端(ただし)、茅野亮(たすく)、横川竟(きわむ)、横川紀夫の横川(よこかわ)4兄弟が、東京都北多摩郡保谷町(現、西東京市)の「ひばりが丘団地」と道路を隔てて向かい合う30平方メートルほどの小さな食品マーケットの一角に食料品店「ことぶき食品有限会社(資本金200万円)」を設立したのが始まりです。
 会社の目的は「家庭食料品販売、それに附帯する一切の業務」と登記されており、乾物だけでなく、あじ、さんまの開き、塩鮭、しらす干し、かまぼこ、佃煮など半生加工商品、缶詰、香辛料、コーヒーなども揃えていたそうです。
 なお、ひばりが丘団地の前に店舗を構えたのは、たまたま手にした週刊誌の記事がきっかけだそうです。同団地のそばの乾物屋が団地族のライフスタイルについていけなくなり、店じまいしたという記事を見て、兄弟で現地を見に行ったそうです。すると、団地の目の前の道路に面して人通りも少なくはなく、しかも子供連れの若い奥さんが目についたことから即決したそうです。
 当時は午前8時頃にシャッターを開けると徐々に客が集まり始め、買い入れたばかりの食品を並べる間もないほどの盛況になったそうです。納品に来た卵、納豆の業者も、納めたばかりの商品の売り子をするほどの賑わいで、「商品はあらかたなくなり、棚やケースは空っぽ。昼飯どころか水一杯も口にできずに、12時間ほども動き回って、初日が終わったのである」と後に横川端氏が書いています。損益分岐点は1日、5万5000円の売り上げだったそうですが、横川端氏の記憶では15万円から20万円売ったという。その後は開店時の爆発的な売り上げは落ち着いたものの、常連客も付き、経営は軌道に乗ったそうです。
 「ことぶき食品」は順調に成長を続けていき、1963年に2号店を西武池袋線沿線の東伏見の団地の近くにある商店街に出しました。2号店は竟氏が店長として運営に当たりました。1964年、西武池袋線秋津駅近くに3号店(四男の横川紀夫氏が店長)を出し、1965年に西武池袋線清瀬駅近くに4号店を出汁し。ここは端氏が店長となりました。
 この時期になると社員数は10人を超え、新卒の高校生も採用するようになっていたそうです。そこで端氏は4号店の店長から身を引き、採用などバックオフィスに専念するようになりました。ことぶき食品は店舗を増やし、西荻窪店、国分寺店の2店のセルフサービス店をオープンさせ、全6店舗となり、1965年以降、年商は3億円に達したそうです。
 しかし、1968年頃になると売り上げが頭打ちになり、ジリ貧の状況に追い込まれたそうです。原因は大型のスーパーマーケットによる出店攻勢が始まったことだそうです。「流通革命」という言葉がメディアなどで取り上げられるようになり、1960年代後半から続々と大型スーパーが出店するようになったそうです。複雑な流通経路を簡略化し、大量生産、大量消費の時代に対応した豊富な品揃えに加え、価格競争で圧倒的なパワーを持つ大型量販店が小規模な小売店を淘汰していった時代です。
 西友のセールは木曜日と決まっていて、木曜日になると恐怖の紙バクダンが降ってくるような感じだったそうです。広告にネスカフェいくら、マヨネーズいくら、と書かれていて、その金額は、ことぶき食品の値段よりもはるかに安く、どうにもならなかったそうです。
 1967年、横川4兄弟の長男、横川端(ただし)氏と次男の茅野亮(たすく)氏は、経営コンサルタントの渥美俊一氏を訪ねたそうです。しかし、渥美氏からは、「僕の所に来るのが遅すぎた。もっと早く来れば何とかなったのに、これではもう何ともならん。ああ、もうおたくはすぐつぶれます。いまのうち全部売払い、郷里へ帰って農業でもしなさい。いまから勉強して、あるべき店づくりをしても間に合いません。」と言われたそうです。
 兄弟4人で会議をしても、結論は出ず、まずは渥美氏が運営していたペガサスクラブに入会して新しい事業のヒントを得ることとしたそうです、しかし、1968年に西友が国分寺駅前に進出することを知り、あきらめたそうです。「雑貨だけでなく、得意とする鮮魚や精肉、加工食品まで品揃えと価格の両面で西友に負けてしまった。結局、組織の力と資金力で見劣りし、月商120万円だったのが30万円にまで落ち込んでしまった。すぐに諦めた。『これは勝てない』と感覚で分かる。1週間で食品店をすべて閉めると決めた。そのとき実は外食をやるなんて決めていなかった。まずやめることが先決だった。」そうです。(日経MJ2016年8月5日より)。
 渥美氏がペガサスクラブで最も力を入れていたのが米国の流通業の視察だそうです。戦後、日本の文化や国民生活は大きく変化したが、それは米国からの影響が強かったため、向こうで実物を観ることが全てだと。「見れば、自分の考えが変わる。そして、自分がしなきゃならないことが、はっきりと分かってくるから、アメリカを見なさい」と語っていたそうです。そして4兄弟は1968年と1969年にそれぞれ視察に出ることになり、端氏は1969年、米国西海岸視察セミナー7日間ツアーに参加しました。端氏はマクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツ、デニーズ、ビッグボーイ、サンボズ、マリーカレンダーなど、広いメイン道路に高々と掲げたサインポールと、どの店も我々にはピカピカ光って見えた」と話しています。「あの時の感動が今日まで続いています。目に焼き付けられた明るいアメリカが、ずっと続いているわけです。当時の日本の外食は暗いお店ばかりでしたが、アメリカはものすごく開放的で人々も明るい表情で食事をしていました。それを見た時に『ああ、すごくいいな』と、心の中にカリフォルニアの明るさとして残るんですね。その感動はいくら話を聞いても経験できるものではありません。」と話しています。
 転業を模索していた4兄弟は、外食産業に目を向け始めていたそうです。これは渥美氏との最初の面談の時に指摘されていたことでもあったそうです。端氏は米国視察で以下のような印象を語っています。「フードサービスは、まだその頃はスーパーマーケットに比べると後発でした。流通業の確立したチェーン理論に基づいて、良い所を取り入れて後を追っていく感じにあったわけです。ですから、両方を見ていると、日本もいずれそうなるかもしれないなというような気持ちがありました」
 帰国後、兄弟はそれぞれ見てきた米国の印象を語り、どのようなフードサービスを目指すかを話し合ったそうです。4人の目指す方向はコーヒーショップ型とファストフード型の2つに分かれたものの、1969年の半ば頃には「1970年にアメリカのコーヒーショップ型で、ちゃんとしたサービスを伴う店舗を郊外に作る」、という合意に達することができたそうです。
 コンセプトは米国で見た駐車場のある開放的な店とし、新規事業の担当者は四男の横川紀夫氏としたそうです。三男の横川竟(きわむ)氏にことぶき食品の運営を任せ、長男の横川端(ただし)氏と次男の茅野亮(たすく)氏が中心になって、(1)店舗の場所、(2)資金調達、(3)建物、(4)人とメニュー、(5)店名、を早急に決めるべく動いたそうです。
 米国型の自動車で訪れて食事をするタイプのレストランということで主要街道沿い、土地勘がある三多摩地区ということで、甲州街道(国道20号)、青梅街道(都道5号)などの主要幹線道路を候補として、端氏と亮氏が仕入れ用のライトバンで不動産業者や売地を巡り、場所を探したそうです。
 そして甲州街道沿いの府中市と国立市の市境にある249坪(登記簿上は836.36平方メートル)の麦畑に目をつけたそうです。住所は府中市西府町5-16-1(後に隣接する土地も買収)で、当時はまだ作物が植えられ、周辺には建物もあまりなく、隣接する国立市の土地(大字谷保字一本松4149番地)は雑種地だったそうです。最寄駅は約800m離れたJR南武線、谷保駅だったそうです。駅から歩いて、わざわざ麦畑だった場所にできたレストランに向かう客など全く期待できません。それまでの常識からすれば、レストランに適さない場所であるのは明らかでした。そこに50坪程度の建物と20台〜25台の収容が可能な駐車場を造るには7000万円〜8000万円が必要だったそうです。しかし、当時のことぶき食品の自己資金は2割程度しかなく、残りの一部は亮氏が養父に相談したそうです。
 亮氏は、養子に行った先で農家を継ぐことを期待されていたにもかかわらず、東京に出て事業を始めてしまった経緯があり、母親は「姉の家に養子に出した子が、その家業を継がないのは申し訳ない」と強く反対したそうです。そのような事情から、融資を頼むのは非常に苦しい選択肢であったがものの、他に方法はないと考え、亮氏は長野へ向かったそうです。
 端氏によると、「(亮氏の)親父さんという人は、寡黙な人でしてね、あんまりものを言わない人で、じっと聞いた上で『わかった』と言って、田んぼを売って、こっちに土地を買い替えてくれたんです。」とのことです。
 こうして土地購入については、手持ち資金と亮氏の義父の出資、土地自体への担保権設定によって目途が立ちました。しかし建物を建てるにはまだ、3000万円ほど足りず、亮氏と端氏は付き合いのある田無農協(現、東京みらい農業協同組合)の小林参事に相談したそうです。計画書を示し、開店予定地や建物の形態、どのようなタイプのビジネスなのかを事細かに説明したそうです。何度か、断られたものの、最終的に小林参事は「理事会が承諾したら融資する」という条件を提示してくれたそうです。
 1970年初頭、府中市と国立市の境にある麦畑で亮氏は田無農協の理事(40〜50歳代、7〜8人)を相手に1号店の計画書などの資料を手渡し、説明を始めたそうです。ここに店をつくって、車をこう止めてもらって食事をしてもらって、その食事はこういうのを作りますと説明したものの、農協の理事は農家の人で、レストランのことなど全く分からず、また麦畑に店を作るなんて考えたこともないでしょうからみんな、ポカンとして質問も出なかったそうです。
 理事の前で、35歳の亮氏が身振り手振りで1時間半も熱弁し、説明したものの、黙って帰る理事を見て、端氏は、とても融資はしてもらえないだろうと感じたそうです。しかし、後日、小林参事からは融資する、という電話連絡をもらったそうです。その後、「ある理事の方が手を挙げて『あんなに一生懸命言うのだから、ここは貸してあげたらどうですか』と同情で言ったのがきっかけで、他の人も『それしかないな』という感じで承認された。」という後日談を聞いたそうです。この間、1969年7月17日に「ことぶき食品」は、「株式会社ことぶき食品」に組織変更しています。
 しかし、その後、資金の借り増しということで担保が不足し、4兄弟は1人、1億円の生命保険に入り、それを追加担保としたそうです。こうして資金調達の目処をつけると、ようやく店舗の建築が始まりました。建物はガラスの大きな、夜でも明かりがついて人を呼び込むような明るさを意識したそうです。それにカリフォルニアで見たコーヒーショップのように、高々と立てたポールと、駐車場へ誘導する「イン看板」を立てました。日本では、それまで見たことがないタイプの建物が府中市と国立市の間に出来上がりました。
 容れ物が決まっても人がいなければレストランは動かせません。店長は新規事業担当者である四男の横川紀夫氏が務め、ことぶき食品で採用した大卒一期生などの社員を配置し、アルバイトも採用したそうです。指導スタッフがいないため、キビキビ、テキパキ、爽やかなサービス、丁寧な挨拶を心がけましょうという、自分たちがこうして欲しいと思えるサービスをしようと、オペレーションを1から作っていったそうです。開店に備えて紀夫氏は他の飲食店にアルバイトに入り、レストランのビジネスを学んだそうです。
 また、料理を誰が、どのように作るか、ということも重要な問題でした。当初は紀夫氏が作ったものの、商品化できるレベルではなかったため、コンサルタントの小熊辰夫氏に相談した結果、プロの料理人を雇うことを提案されたそうです。手当たり次第に当たるうちに、町のレストランの腕利きコックといった感じの小高次男氏と巡り合い、チェーン店化したいという要望にも「私ができることはお手伝いしてみましょう」と理解を示してくれたそうです。そして採用が決まると、部下になるコックを3人連れて1号店に入ってくれたそうです。
 小高氏はイタリアンが専門だったため、メニューには米国のコーヒーショップにはなかったピザが入り、パスタも採用されました。それ以外にハンバーグステーキを中心としたステーキ類にサラダ、スープなど、今ではファミリーレストランの定番となるものが組まれたそうです。また「日替わり、本日のランチコーヒー付き480円」というのぼりを道路際のポールに大きく掲げることも決定したそうです。料理とライスとコーヒーで500円以内に収まることをアピールすることにしたそうです。
 店名については様々な意見が出され、ことぶき食品の社員から公募もしたものの、採用されたのはコンサルタントの小熊氏発案の「スカイラーク」でした。理由は「ひばりが丘団地で創業した会社だから」だそうです。4兄弟も、「ひばり」は空高く舞い上がることから縁起が良いと賛同し、決定しました。なお、「すかいらーく」と平仮名になるのは2号店からです。
 こうして1970年7月7日(火)、東京都府中市にファミリーレストラン第1号店、「スカイラーク」(国立店)が開店しました。新規事業担当で店長の四男、横川紀夫氏は前日の6日から徹夜で最後の準備をして、その時を待ったそうです。
 開店は午前11時だったそうです。女子大生のアルバイトが白い帽子に白手袋で駐車場の出入りを誘導する係となり、長男の横川端(ただし)氏は次男の茅野亮(たすく)氏とともに午前10時過ぎから、外から1番目立つテーブルに腰掛けて甲州街道を走る車の流れを見続けたそうです。
 しかし、皮肉にも最初の客は徒歩で店に入ってきたそうです。近くの事業所に勤務する3人のOLで、手に財布を持ってしゃべりながら店に入り、480円のランチを注文したそうです。その3人組を呼び水にするかのように客が入り始め、70席程度のテーブルが満席になったそうです。端氏も慣れない手つきでトレーを持って接客したそうです。
 夜になっても客足は途切れず、自動車での客が入り、満席になったそうです。建設中の「スカイラーク」を自動車から眺めていた人が「何が出来るのだろう?」、「完成したようなので、行ってみよう」という効果があったようです。当時、店舗の損益分岐点は1日あたりの売上が13万5000円と計算されていたそうです。初日は15万円を突破したそうです。
 その後も順調に売上を上げることができ、20万円、25万円を記録する日もあったそうです。もちろん8万円の日もあったすですがが、月単位では売り上げが伸び続ける状態が3年ほど続いたそうです。この店舗の成功によって、同社の事業をファミリーレストランに本格的に転換することに決め、1974年11月に「株式会社すかいらーく」に社名を変更し、ファミリーレストランのチェーン展開を始めました。そして、国分寺、八王子、調布と三多摩地区に次々と店舗を拡大し、チェーン店構想を駆け足で実現させていったそうです。
 1号店オープンから5年後の1975年には100店舗を達成したそうです。この勢いで、1978年7月に日本証券業協会に店頭登録されました。また、多様なニーズに応えるためにイタリアン(トマトアンドオニオン、1979年8月)、コーヒーショップ(ジョナサン、1980年4月)、和食(藍屋、1983年11月)、中華(バーミヤン、1986年4月)、などにも事業を拡大し、外食産業のリーディングカンパニーとしての地位を固めていきました。この間、会社としてのすかいらーくも1982年8月に東証二部に株式上場、1984年6月に東証一部に指定替えと、順調に発展しています。
 しかし、バブル崩壊後の1990年代は時代の波に合わせて低価格路線に舵を切る必要が出てきました。そこで、「すかいらーく」の低価格形態として「ガスト」を生み出し、1992年3月、ガストの1号店、小平店がオープンしました。「ガスト」とは、スペイン語の「gusto」の英語読みで、「美味しい」、「楽しく味わう」という意味だそうです。より気軽に、より身近に家族のダイニングルーム感覚で利用してもらえるよう高品質の料理をリーズナブルな値段で提供することを目指したそうです。
 このガストの誕生により、「すかいらーく」は、徐々に「ガスト」に変更されていきました。ガストは2003年11月には1000店(1000店舗目は、八王子寺町店)を達成しています。その後、2009年10月29日、川口新郷店の閉店を最後に、店舗としての「すかいらーく」は消滅しました。
 ガストの誕生後、日本国内において、外食産業自体が頭打ちの状況となり、また、すかいらーくも組織の肥大化による問題点が出てきたことから、2006年9月、創業家による株式買取(マネジメント・バイ・アウト)を実施して非上場化しました。これには、すかいらーくが発行していた300億円の新株予約権付社債(転換社債=CB)が一因にあったようです。証券会社の提案で調達した資金でしたが、運用に失敗、バブルの崩壊で焦げ付いていたようです。業績も低迷し、ピーク時に4,500円だった株価も1,500円まで下落し、メインバンクだったみずほ銀行からもいろいろと言われていたようです。
 そこで証券会社の知人のアドバイスでMBO(経営陣が参加する買収)を実行することになったそうですが、負債を含め2500億円以上の規模になり、外部からの借入金は1500億円必要だったそうです。そこで野村証券が1000億円、金融機関であるCVCが500億円で配分したそうです。これにより、野村証券側から、すかいらーくの副社長と専務に就いたていたそうです。その後、業績が予定通り、上向かず、資金繰りにも厳しさが出てきたため、野村証券は横川社長を交代させることを考えたようです。
 2008年8月12日、臨時株主総会で三男の横川竟(きわむ)氏の解任が決議されました。端氏、亮氏、紀夫氏も2008年8月末で最高顧問を辞職しました。この時点で4兄弟は、自らが築き上げた「すかいらーく」から完全に身を引くことになりました。これはMBOを主導した金融機関、証券会社による創業家の追放および、乗っ取りかもしれません。創業家が去った後、米国の投資ファンド「ベインキャピタル」の子会社、株式会社BCJホールディングス6が全株式のおよそ20%を保有し、筆頭株主になりました。さらにベインキャピタルはすかいらーくの議決権の100%を取得することを企図し、2011年11月に1,600億円もの投資をしました。
 2015年9月に株式会社すかいらーくレストランツを設立し、レストラン事業の一部を分割譲渡しています。その後、2016年1月に持株会社体制に移行し、2017年11月にベインキャピタルは保有株を売却しています。さらに2018年7月1日付けで株式会社すかいらーくホールディングスに商号変更しています。
 ガスト1号店の小平店は既に閉店しているそうです。ネット情報では、現在はマンションになっているそうです。ちなみにすかいらーくの1号店は、現在はガスト国立店として営業をしています。ただし、建物は2018年に改装されているそうです。







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