名代 富士そば

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更新日:
 2019年7月30日



◎名代 富士そば(2019年7月30日)
 「名代 富士そば」は首都圏を中心に展開している立ち食い蕎麦のお店です。2019年7月末現在、グループで国内134店舗、海外15店舗を展開しており、1日に7万食以上を売っているというお店ですが、店名を正しく読めるでしょうか。「名代 富士そば」は、実は「なだい ふじそば」と読みます。私も知らず、「みょうだい」と読んでいたのですが、正しくは「なだい」だそうです。広辞苑(第7版)によると「名代」という言葉を「なだい」と読むと、「名高いこと」という意味ですが、「みょうだい」と読むと「人の代わりに立つこと」となり、「なしろ」と読むと「大和政権化の皇室の私有民」という意味になります。ちなみに「めいだい」という読み方はありません。「名高い」とは「名が広く世間に知れわたっている。有名である。」という意味ですから、創業者の希望が店名に込められたのだと思われます。
 「名代 富士そば」を運営しているダイタングループの創業者、丹道夫(たん・みちお)氏は1935年(昭和10年)12月15日に名古屋市で生まれたそうですが、生後すぐに父親が死去したため、母親の実家のある愛媛県西条市に転居したそうです。中学を卒業後、西条南高校農業科(現西条農業高校)に進学したものの、山道を10kmも下ったところにある高校だったため1学期で中退したそうです。その後、いろいろな職業を経て、4度目に上京した時、友人に誘われて一緒にお弁当屋さんをやることになったそうです。埼玉県川口市で主に工場向けの弁当屋を開業したところ、半年もすると1日に600食も売れるほど繁盛したそうです。すると1964年(昭和39年)に別の友人から、「不動産業をやらないか」と声がかかったそうです。そこで弁当屋は弟に任せ、3人の共同経営者とお金を出し合って資本金1000万円でスタートしたそうです。当初は全く売れず、苦労したそうですが、そのうち事業が軌道に乗り、最盛期には社員が1200人、月商30億円、利益だけで7億円も出ていたそうです。
 その頃、丹道夫氏は役員として月給で500万円もらっていたそうですが、心の中では「こんな商売は麻薬だ。ありえない。いつまでも続く訳がない。」と思っていたそうです。10代の頃は八百屋や油屋で丁稚をしていて、稼ぐことの大変さが身に染みて分かっていたので、ボロ儲けできる商売は絶対に長続きしないと思っていたそうです。いずれダメになるのだから、その時に備えて堅実な商売をやっておかないといけないと考え、仲間に立ち食いそば屋を提案したそうです。
 その頃、東京には立ち食いそば屋が無かったそうです。丹道夫氏が新潟か福島を旅行した時、駅の通路下で年配の女性が蕎麦を売っていたそうです。列車が来ると客が集まり、大繁盛するのを見た時、「みんなが忙しく動き回っている東京のほうが合うはず。」とひらめいたそうです。そこで、仲間を説得し、不動産会社の役員それぞれに1人70万円ずつ出資してもらったそうです。そして渋谷区の東急百貨店本店の通り沿いで、お菓子屋さんをやっていた4.5坪(約15平方メートル)の物件を見つけ、店舗を立ち上げることにしたそうです。ただ、蕎麦屋などやったことがなく、悩んでいたところ、従業員の松本さんが「見習いに行ってきます」と銀座の蕎麦屋に弟子入りし、1ヶ月ほど修行してきたそうです。
 そして落語の人気演目から「そば清(せい)」という屋号を決め、1966年(昭和41年)に営業を始めたそうです。当時はかけそばが1杯40円、天ぷらと生卵を載せた一番高い「天玉そば」は60円だったそうです。丹道夫氏の目論見は当たり、朝から晩まで大盛況で、すぐに1日1000人のお客さんが来るようになり、新宿、池袋、西荻窪にも立て続けに店を出したそうです。
 「名代 富士そば」は、24時間営業を始めた日本初の外食チェーンだそうです。「名代 富士そば」が24時間営業を始めたのは1966年(昭和41年)だそうです。最初に始めたのは、新宿の伊勢丹裏にある新宿店だそうです。当時、「夜中に蕎麦を食べに来る人なんて誰もいませんよ。働いてくれる人を見つけるのだって大変です。」と周りに猛反対されたものの、強引に始めたそうです。ただ、東京が「眠らない街」に向かう時代だったため、店の前の明治通りをタクシーが沢山走っており、その頃は路上駐車してもとがめられない時代だったため、タクシーの運転手さん達が口コミで集まってきたそうです。
 しかし、不動産事業に誘ってくれた大林さんから「共同経営から2人で手を引こう」と相談され、2人で会社を辞めることにしたそうです。この時、「そば清」など、飲食店の経営権だけをもらい、不動産事業は残った人達に任せたそうです。丹道夫氏と大林さんは飲食業に専念しようと決め、大林さんは水商売に目を付け、安い値段で飲める若者向けのバーの経営に乗り出したそうです。1号店は1968年(昭和43年)、新宿、歌舞伎町の雑居ビルの7階に出した「スカイコンパ」というお店だそうです。店の中央に円形のカウンターを設け、中に男性のバーテンダーを配置して、1杯200円から飲めるようにしたそうです。すると、安く飲めるとの評判が次第に広がり、収益は右肩上がりとなり、すぐに同じ歌舞伎町に2号店を出したそうです。店名は、当時の由紀さおりのヒット曲にちなんで「スキャット」と名付けたそうですが、こちらも繁盛したそうです。
 大林さんは色々な事業に手を出す人で、ゴーゴークラブもやればイタリアンレストランもやるし、フランチャイズの喫茶店もやったそうです。会社に40万円しかないのに、また店を出すというので、丹道夫氏は「このままでは絶対に危ない」と感じていたそうです。当時、丹道夫氏は結婚して地道な暮らしがしたいと思っていたため、「結婚するから1人で事業をやりたい」と言って、大林さんと1971年(昭和46年)に袂を分かったそうです。この年、実際に奥様と結婚したそうです。そして袂を分かつ際、退職金180万円と一緒に4店舗あった立ち食いそば店と名古屋の高級そば店、ハンバーグ店、さらに6000万円の借金を受け継いだそうです。立ち食いそばの売り上げは1日40万円程度で、名古屋の2店を加えても100万円にも満たなかったため、当初は資金繰りに苦労したそうです。
 しかも名古屋のハンバーグ店が大苦戦し、資金がショートしそうになったことから、ハンバーグ店はあきらめて、当時はまだ珍しかったサラダ専門店に転換したそうです。新鮮なサラダを木のボウルに山盛りにして好みの自家製ドレッシングを選んでかけてもらうというスタイルが当たり、若い女性客らが殺到したそうですが、今度は従業員が過労で倒れてしまったそうです。このようなトラブルが続き、結局、名古屋の2店舗は手放したそうです。丹道夫氏は、出店地域を広げると経営の目が届かなくなると実感したそうです。このことから現在でも「名代 富士そば」は、都内を中心に都下、埼玉県、千葉県、神奈川県と首都圏のみの出店にこだわっているのだと思います。
 そして、立ち食いそばの店名を「そば清」から現在の「名代 富士そば」に変更しました。初めて愛媛から上京してきた時、車窓に映った富士山が忘れられず、心の中で「いつかは富士山のような立派な人間になりたい」と誓ったそうです。そこで「富士」という名前を付けたそうです。また、富士そばの経営に専念するため、1972年3月9日にダイタンフード株式会社を設立しました。
 立ち食いそばに専念したことで、味にもこだわるようになったそうです。便利な立地にあれば、1回は来店してくれるかもしれませんが、味が良くなければ2度、3度と店に足を運んではくれません。それまでは、あらかじめ蒸した麺を店内でさっと湯をくぐらせるだけでしたが、平成元年(1989年)頃に生麺を店内で茹でる方式に変えたそうです。また、立ち食い専門だった店舗にカウンターやテーブル席を設け、座って食べられるようにしたそうです。現在、立ち食い専門店は笹塚店だけだそうです。
 また、丹道夫氏は1976年(昭和51年)、「名代 富士そば」の運営会社であるダイタンフードとは別にダイタン企画という会社を立ち上げました。事業内容は2社ともにまるっきり同じですが、新店舗の開発から店舗運営まで、独立採算で手掛け、基本のメニューも同じという分社化です。しかも各社ごとの担当エリアも決めず、独自に判断するというスタイルです。このため現在は、「名代 富士そば」を運営するグループ会社はダイタンフード株式会社の他に、ダイタン企画株式会社、ダイタン食品株式会社、池袋ダイタンフード株式会社、ダイタンイート株式会社、ダイタンミール株式会社、ダイタンキッチン株式会社などがあります。「名代 富士そば」の店舗は見た目が同じでも、上記のいずれかの会社が運営しているため、運営会社ごとに微妙に差があるそうです。なお1号店の「渋谷店」は2016年1月末で閉店してしまいましたが、2号店の新宿店は現在でも営業をしています。



・カツ丼そばセット







・冷やしきつね蕎麦



・名代 富士そば
 住所:東京都新宿区新宿3-14-25 パークシティ3
 TEL:
 営業時間:24時間
 定休日:無
 駐車場:無
 アクセス:東京メトロ、新宿三丁目駅から徒歩約3分
 カード:不可
 席数:7席
 オープン日:1966年(昭和41年)