幸楽苑

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更新日:
 2020年12月30日



◎幸楽苑(2020年8月25日)
 「幸楽苑」は、福島県郡山市に本社を置く株式会社幸楽苑ホールディングス(創業:1954年(昭和29年)9月22日、設立:1970年(昭和45年)11月11日、代表取締役会長:新井田傳(にいだ・つたえ)、代表取締役社長:新井田昇(にいだ・のぼる))が運営しているラーメン店です。黄色い看板に「昭和二十九年創業」と書かれているお店です。以前は、「ラーメン290円」というのぼりが立っていました。
 発祥は1954年(昭和29年)、新井田司氏が55歳の時に東北電力を退職した際の退職金を投じて会津若松駅前に開業した6坪の店、「味よし食堂」です。当時、うどん:20円、天ぷらうどん:25円、ラーメン:35円だったそうです。後に「幸楽苑」を興す司氏の息子である傅氏は、司氏が46歳の時の子供で男3人、女4人の7人兄弟の末っ子だそうです。(本当は8人兄弟だそうですが、長兄は小学3年生で亡くなっているそうです。)すなわち「味よし食堂」を開業した時、傅氏は10歳だったことになります。司氏は東北電力を退職したものの、まだまだ家族のために稼がないといけないということから「味よし食堂」を開業したのだと思います。
 オープン当初は司氏と奥様の2人で営んでいたそうです。深夜営業に目をつけた2人は、真夜中まで働いたそうです。「深夜帯でなければ、素人が始めた店にわざわざ来ない」という司氏の判断だったそうです。それが功を奏して、客が増えていったそうです。研究熱心な司氏は、新しいメニューも開発し、従業員も次第に増えていったそうです。
 傅氏が会津高校に在学中、お母さまが亡くなったそうです。傅氏は勉強に身が入らなくなり、高校卒業後、浪人し、独学で大学への進学を目指すことになったそうです。一方、「味よし食堂」も活気が無くなり、従業員も減っていったそうです。そこで司氏は、出前に活路をみいだしたそうです。しかし、従業員がさらに減ると出前も長時間待たせることになり、浪人していた傅氏も店を手伝い、出前に行くようになったそうです。
 しかし、その頃、散々、悪口を言われたそうです。「まずい、店名を変えろ」とクレームをつける客が多く、傅氏は非常に悔しい思いをしたそうです。司氏は店の存続など考えておらず、傅氏を大学に行かせることを考えていたようです。しかし傅氏は、大学に進学している場合じゃないと進学を辞め、店を継ぐことを決心したそうです。しかし、雨漏りがする小さな店の店主で終わりたくない、福島一の店にしようと決めたそうです。
 福島一の食堂を作ろうと決意した傅氏は、東京に出て修業することにしたそうです。1964年4月、東京服部栄養学校に入学し、料理の基本を学ぶことにしました。また、学校に通いながら、中華料理店を食べ歩き、履歴書を持って、自分の舌と足で修行先を探し回ったそうです。「ここぞ」と思った店に頼み込んでアルバイトをさせてもらったそうです。
 そうやって3店目で四谷の幸楽飯店という店に出会ったそうです。終業のタイムカードを押してからが修業だったそうです。深夜まで厨房に居残り、先輩に教えてもらいながら、黙々と中華鍋をふったそうです。八宝菜、酢豚など、次々にメニューを修得していき、1年半で全てのメニューをマスターしたそうです。
 一方、傅氏は周りへの配慮も忘れなかったそうです。店には仏壇があり、その仏壇のご飯の上げ下げもいつしか傅氏の仕事になっていたそうです。そんな傅氏の姿を店主であるケ順宝氏は見ていたのだと思われます。1966年、上京して2年、傅氏が修業を終え、会津に戻ることを決めた時、ケ氏は『「幸楽」をお使いなさい』と言ってくれたそうです。「幸楽苑」の名前の由来です。
 1966年に傅氏は、故郷、会津若松に戻り、「会津一の食堂」を目指しますが、資本も人もないことから、「小さな店をたくさん作ろう」と戦略を立てたそうです。そこで1966年2月に「味よし食堂」に次ぐ店舗として「華宮飯店」を開店し、1967年に「味よし食堂」を「幸楽苑」に改称し、1968年に八番街店としてサッポロラーメン店、1969年に大町店を開店しました。このように会津若松でラーメン、中華料理の店舗展開を進める一方、多角化としてカレー専門店(1970年に「アショカ」を開店するが、翌1971年に閉店)や、喫茶店の経営にも乗り出したそうです。そして1970年11月に株式会社幸楽苑(資本金2,000万円)に会社形態を変更し、代表取締役社長に新井田司氏、代表取締役専務に傅氏が就任しました。
 6店舗まで出店して会津一になったものの、6店舗になると管理が思うようにいかなくなってきたそうです。そんな時にペガサスクラブの渥美俊一氏に出会ったそうです。渥美俊一氏は日本にチェーン・ストア理論を根付かせた経営コンサルタントです。傅氏は、渥美俊一氏の理論をもとに、それまで広げていた業態を1つに絞りました。メニューもラーメンと餃子、チャーハンの3品に絞り、製造直販でないと本当のチェーン店は作れないと教えられ、1975年に会津若松市内に製造工場も作ったそうです。1980年にはFC事業にも進出し、その後は店舗数を増やしていきます。
 「幸楽苑」の麺は、コシの強さと喉ごしの良さを追求して辿り着いた「中太ちぢれ麺」です。品質を最優先した上質の小麦粉に水を多めに加え、門外不出の製法で仕上げた多加水熟成麺は、麺そのものに味わいがあり、程良く絡むスープと相性が抜群だそうです。
 スープは豚ガラ、鶏ガラをじっくり煮込んだガラ炊きスープと、鰹節などから取った魚介ダシ、さらに豊富な種類の野菜ダシを絶妙なバランスで合わせたトリプルスープです。
 「幸楽苑」は、ラーメン屋さんで良く聞く「半ちゃんラーメン」を生み出した(名付けた?)お店です。1993年1月、半チャーハンとラーメンを組み合わせた主力セットメニュー、「半ちゃんラーメン」を商標登録(商標登録番号1523776号)しています。



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